HISTORY ゴルフ場
日本人が初めて創ったゴルフクラブ
1914年、駒沢で生まれた
東京ゴルフ倶楽部
日本ゴルフ史上で東京ゴルフ倶楽部の持つ意義は、最初に造られた「日本人による日本人のゴルフクラブ」だということである。
中心人物の井上準之助は、横浜正金銀行の頭取で、後に日銀総裁、大蔵大臣と要職を歴任した人物。日銀の海外代理店監督役として1908年10月に渡米、ニューヨーク駐在中に「日米生糸貿易の創始者」といわれた新井領一郎の熱心な勧誘を受けてゴルフを始めている。
帰国した井上は日本でもゴルフを続けようとしたが、関東に一つしかなかったゴルフクラブ、横浜・根岸のニッポン・レース・クラブ・ゴルフィング・アソシエーション(NRCGA)は在留外国人が中心のクラブで、日本人が気軽にゴルフを楽しめるものではなかった。
そこで、日本人のためのゴルフクラブを設立したいと考えた井上は、親友で貴族院議員の樺山愛輔(樺山資紀海軍大将の養子。当時・日英水電社長)と同郷(大分)の荒川新十郎(当時・横浜生糸社長)に相談した結果、3人が発起人となって、麹町にあった社交クラブ「東京倶楽部」の会員に呼びかけることとなった。
こうして、森村開作(後に七代目・市左衛門を襲名)など第一次出資者30人が集まり、1913年12月8日、「東京ゴルフ・アソシエーション」が作られた。これが東京ゴルフ倶楽部の始まりであった。
1914年頃の駒沢コース
幻に終わった
程ヶ谷移転計画
コースの候補地には、1907年に玉川電鉄が渋谷から玉川まで開通し、田畑や丘陵地が住宅へと変わろうとしていた荏原郡駒沢村(現在、世田谷区駒沢公園)の雑木林が選ばれた。
出資母体が任意団体だったため、3万5000坪の土地を借り受ける地主との交渉は、すべて井上準之助が個人で行った。
地主たちは、聞いたこともない「ゴルフ」なるもののために本当に地代を払ってくれるのかと不安がり、交渉は難航する。「契約調印は銀行で」と井上は主張したが、地主たちは井上がどんな家に住んでいるかを確かめるため自宅での調印を求めたという。麻布三河台町(現在の六本木3、4丁目あたり)にあった井上の邸宅は大名級の屋敷で、地主たちはこれを見て安心し、ようやく契約に至ったとの逸話が残されている。
コース設計は根岸NRCGAの会員でキャプテンのG.G.ブレイディと、同じく会員で第2回日本アマチュアゴルフ選手権(1908年)の優勝者であるF.E.コルチェスターに依頼した。
手作業で造成された6ホールが1914年6月に完成、仮開場する。作業は続けて進められ、2,300ヤード、9ホールのコースが間もなく完成、東京ゴルフ倶楽部駒沢コースが正式に開場した。
クラブハウスは、大正天皇即位をきっかけに産業振興を図るべく1914(大正3)年に上野公園・不忍池周辺を主会場に開催された、東京大正博覧会の迎賓館が払い下げられたものであった。
東京大正博覧会の迎賓館を移築した駒沢のクラブハウス
その後、会員が増加し来場者も増えたためコースが狭く感じられるようになったため、程ヶ谷に18ホールのチャンピオンコースを造って移転する案が浮上する。駒沢は周辺の開発が進み、借地であるコースの地代は毎年、値上げを迫られており、コースの拡張のための用地も安い地代では借りられない状況となっていたことも、移転計画の要因となっていた。
しかし、駒沢は交通の便がよく、会員たちのコースへの愛着もあり、結局、この移転計画は実行されなかった。東京ゴルフ倶楽部が移転しなかった程ヶ谷の土地には、1922年、程ヶ谷カントリー倶楽部が創立することとなる。
1922(大正11)年4月19日、駒沢コースで親善ゴルフを行った、摂政宮(後の昭和天皇)と英国皇太子(後のエドワード8世)。「日本のゴルフ史」より転載
駒沢コースは1925(大正14)年、土地の手当てが可能となり18ホールに拡張することが決まる。同年5月9日、アメリカから帰国し会員となった赤星六郎と大谷光明の増設設計により、6,160ヤード、パー72のチャンピオンコースが完成する。
また、創立当時の東京ゴルフ・アソシエーションという名の任意団体を株式会社に改めることになり、1925年1月18日に東京ゴルフ株式会社が設立している。
借地問題が解決せず
アリソン設計の朝霞コースへ
18ホールが完成し、順風満帆に思えた東京ゴルフ倶楽部であったが、たびたびクラブを悩ませていた地代の値上げという問題がここで再燃した。
地主側と折衝の結果、値上げも止むを得ないとして、1928(昭和3)年10月1日から5年間の借地契約を締結することができたが、駒沢からの移転はもはや避けられない状況となっていた。
クラブは新コース建設委員会を設置し、以下の条件で土地を探し始めた。
- 交通の便のよいこと。
東京駅を起点とし、自動車で1時間以内、その上に電車の便のあることが先決。 - 土地の面積が20万坪であること。
- 地価が坪当り5円以下であること。
そして探し当てたのが、埼玉の膝折村、現在の埼玉県朝霞市の平坦な土地であった。
膝折の名は「ゴルフにはそぐわない」とされ、クラブの総裁であった朝香宮の名にちなんで「朝霞」と改められている。村名もまたこのとき「朝霞村」となったという。
東京ゴルフ倶楽部は1932(昭和7)年、5月1日、チャールズ・ヒュー・アリソンが設計した朝霞コースへと移転するが、朝霞コースは1940年、陸軍へと譲渡され、翌年には全コースが閉鎖されてしまう。1935年、1940年と二度の日本オープンが開催され東洋一と謳われた名コースは、わずか8年余りで幻のごとく、姿を消してしまったのである。
東京ゴルフ倶楽部はその後、秩父カントリー倶楽部と合併し、現在の狭山の地にコースを得て、東京ゴルフ倶楽部として現在も存続している。
また、東京ゴルフ倶楽部移転後の駒沢コースは東京横浜電鉄会社(現在の東急電鉄の母体の一つ)に無償譲渡されパプリックコースとなり、1940年には東京オリンピック(開催されず)の会場候補地として東京都に買収されたが、1943年まで現存していた。
駒沢オリンピック公園の敷地内には、「駒沢ゴルフ場跡」と書かれた石碑が建てられ、公園の木々の配列が、わずかに往時のゴルフコースの面影を残している。
文/近藤雅美
参考文献:
「東京ゴルフ倶楽部七十五年史」
「日本のゴルフ史」西村貫一著、1930年初版、文友堂
「程ヶ谷カントリー倶楽部40年史」
「日本ゴルフ協会七十年史」
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