HISTORY ゴルフ場
日本初のゴルフクラブ
1901年、六甲山上に4ホールが完成
1896(明治29)年の夏、六甲山頂付近のアーサー・ヘスケス・グルーム(Arthur Hesketh Groom)の山荘に遊びに来ていたグルームとその友人、ミルウォード(G.Millward)、アダムソン(J.Adamson)、ソーニクラフト(T.C.Thornicraft)の4人は、故国イギリスの思い出話に花が咲き、ふとしたことから「ゴルフをしてみようじゃないか」という話となった。
この話がきっかけとなり、グルームが私費を投じ、仲間たちと3年の歳月をかけて手作りした神戸山上の4ホールは1901年に完成する。これが日本初のゴルフコースである。
ゴルフの本場スコットランド生まれのアダムソンとマックマートリー(McMurtrie)が設計して9ホールのコースへの拡張が進む頃には来場者が増え、コース管理・運営もグルーム1人の手には負えなくなってきた。そこで9ホール完成の見込みがついた1903(明治36)年2月27日、神戸商工会議所で「神戸ゴルフ倶楽部」の創立総会が開かれた。
出席者26名はすべて外国人。コース誕生のきっかけとなった4人の英国人からソーニクラフトは初代のプレジデントに、ミルウォードはキャプテンに、グルームは名誉書記兼会計(Hon.Sec.&Tres.)に選任された。
アーサー・ヘスケス・グルーム(写真右)
Arthur Hesketh Groom、1846(弘化3)年 - 1918(大正7)年
1846年にロンドンで生まれ1868年、兄フランシス・アーサー・グルーム(Francis Arthur Groom)とともにグラバー商会(グローバー商会とも)の神戸支店開設のため神戸へ。グルームが最初に六甲山に登った動機は狩猟と登山であったという。「日本のゴルフ史」より転載
1903年、神戸ゴルフ倶楽部開場
9ホールが完成した1903年5月24日、神戸ゴルフ倶楽部発会式がクラブハウスで開催された。この式典の模様を「日本のゴルフ史」(西村貫一著)は以下のように伝えている。
「時到るや知事服部一三氏、神戸市長坪野氏、神戸税関長桜井氏、英国領事J.C.ホール(J.C.Hall)氏来席。キャディは赤帽をかぶり、巻き込まれたる倶楽部旗は空高くかかげられ、A.H.グルーム氏はMrs.G.ミルウォード(Mrs.G.Millward)の手に依って其の旗を開く。万歳を三唱しその声山に響き渡る。服部氏ファーストティーに進み出でいよいよ処女ドライブを行う。A.H.グルーム氏は其の球を自ら拾い、それを長く倶楽部に保存して、記念となすの旨を述べ式を終る。かくて日本最初のゴルフ競技に移り、昼食の時知事服部氏立って一場の演説をなす」(現代語訳)
服部知事にゴルフの経験はなく、知事が打った球はティーからそれほど離れたところまで飛ばなかったため、グルームが自らこれを拾い上げたのだという。この始球式の球は今も、神戸ゴルフ倶楽部のクラブハウスに展示されている。
開場当時の神戸ゴルフ倶楽部。ティーインググラウンドは砂で固められた“サンドティー”であり、グリーンは同様の“サンドグリーン”だった。「日本ゴルフ史」より転載
開場時の会員120人は
ほとんどが神戸居留の外国人
開場時の神戸ゴルフ倶楽部の会員数は120人であり、会員自らが署名した「ORIGINAL ROLL OF MEMBERS 」によればその年の年末には135人となっている。当初の会員はほとんどがKR&AC(1870年、神戸に居留する外国人のためのスポーツクラブとして設立。現・一般社団法人 神戸レガッタ&アスレチック倶楽部)や神戸倶楽部(1869年、外国人クラブとして設立。現・一般社団法人 神戸倶楽部)の会員だった。
会員たちが自署した
「ORIGINAL ROLL OF MEMBERs」の写し。
135人が名を連ねているが大半は
英国人であることがわかる。
「日本のゴルフ史」より転載
1904年の10月には18ホールとなり、会員も200人近くになったが、日本人会員は川崎造船所初代社長の松方幸次郎など数人であり、プレーはしていなかったようだ。神戸ゴルフ倶楽部で最初にプレーした日本人は、1905(明治38)年に入会した小倉庄太郎と、日本人初の女性ゴルファーといわれるその妹の末子といわれている。
神戸ゴルフ倶楽部、最初の18ホールの愛称とヤーデージ
Holes | Names | Yards |
---|---|---|
1 | Dumpie | 150 |
2 | Kobe | 188 |
3 | Bishop's | 126 |
4 | Styx | 127 |
5 | Yokohama | 217 |
6 | Rokkosan | 168 |
7 | Ponds asinorum | 282 |
8 | Excelsior | 158 |
9 | Kuban | 140 |
10 | The boundary | 146 |
11 | Doctor's nob | 198 |
12 | Long valley | 273 |
13 | Purgatory | 212 |
14 | Paradise | 152 |
15 | Groom's putt | 353 |
16 | Quarry | 296 |
17 | Shorty | 132 |
18 | Doech & doruis | 258 |
In | 2,020 | |
Out | 1,556 | |
Total yardage | 3,576 | |
Bogey | 78 |
「日本のゴルフ史」より転載。当時の基準打数はBogey
クラブハウスは登録有形文化財
現在のクラブハウスは1932(昭和7)年に建て替えられた二代目で、設計は米国に生まれ、日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories)。クラブハウスと宿泊施設として使われているチェンバー(1924年建造。大阪の青年実業家の交友クラブである「サースディ倶楽部」のかつての夏の社交場)は、国の登録有形文化財(建造物)に指定されている。
クラブハウスまでの交通機関は最寄りの駅からの駕籠や馬、自動車が普及する昭和初期まで続いたという。
キャディは六甲山麓の村の子どもたち。キャディをしながらゴルフを覚え、宮本留吉、中上数一、越道政吉らがプロゴルファーとなっている。
1904年、18ホールとなった当時の砂で固められたサンドティー、サンドグリーンは、芝のティー、芝のグリーンへと変わり、キャディは少年から学生アルバイトへと変わった。
しかし、記念品や歴史的写真が所狭しと飾られたクラブハウスの空気は、開場当時そのもの。日本のゴルフ黎明期のゴルファーたちのゴルフへの思いを、いまに伝えている。
文/近藤雅美
参考文献:
「神戸ゴルフ倶楽部70年史」
「日本ゴルフ史」西村貫一著、1930年初版、文友堂
「日本ゴルフ協会七十年史」
現在の神戸ゴルフ倶楽部のコースは、改造を重ねて1929年に概ね現在のコースレイアウトとなった
1932年に建てられた現在のクラブハウス。設計は、日本で大丸心斎橋店本店、同志社大学啓明館など数多くの西洋建築を手懸けた建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ。キリスト教プロテスタントの伝道者でもあり、近江兄弟社の創始者としても知られる
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