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HISTORY 競技

ブリヂストン招待

1936年に開催された
“日本で最初の大賞金競技”

日本で最初の大賞金競技――メディアでそう表現されるトーナメントが行われたのは1936(昭和11)年のことだった。

 大会名は当時のゴルフ雑誌によってやや異なる。『ゴルフィング』は「賞金弐千圓ブリヂストン招待全日本プロゴルフ選手権大會」、『日本ゴルフドム』は「ブリヂストン招待賞金二千円プロ選手権大會」と記している。ここでは以降、略称としてブリヂストン招待と表記する。

 大会名の通り賞金総額は2000円だった。優勝賞金は総額の半分にあたる1000円である。当時のトーナメント記録には賞金額についての記述があまりないため同じ時期の他大会とは比較する材料が乏しいが、例えば1927(昭和2)年の日本オープンゴルフ選手権競技は優勝賞金300円、同年の日本プロゴルフ選手権大会は優勝賞金100円だった。9年の開きはあるものの、“日本で最初の大賞金競技”はその名にたがわぬ賞金額だったことが想像できる。

 

“スポンサートーナメントの先駆け”を制し
陳清水が優勝賞金1000円を獲得

大会を開催したのは、前年にゴルフボールの本格生産を開始したばかりのブリッヂストンタイヤ株式会社(現・株式会社ブリヂストン)である。自社製国産ボールの発売を記念して多摩川の河川敷に広がる18ホールのゴルフ場で11月13、14日の2日間、72ホールストロークプレーを実施した。コース名は『ゴルフィング』が川崎リンクス、『日本ゴルフドム』は川崎ゴルフ・コースと表記している。設計は赤星四郎で、6590ヤード、パー72。残念ながら現存していない。

 プロゴルフのトーナメントにはJGAなどのゴルフ団体が主催するもの(日本オープンゴルフ選手権競技など)と、企業などが主催するいわゆるスポンサートーナメントに大別される。今の時代はスポンサートーナメントのほうが圧倒的に数は多いが黎明期はゴルフ団体が開催するものばかり。1936年を例に挙げればブリヂストン招待以外で6大会が行われているが、日本オープンゴルフ選手権競技、日本プロゴルフ選手権大会、プロ東西対抗はJGAの主催で、関西オープンゴルフ選手権は関西ゴルフ連盟、関西プロゴルフ選手権は関西プロゴルフ協会、関東プロゴルフ選手権は関東プロゴルフ協会がそれぞれ主催していた。ブリヂストン招待は“日本で最初の大賞金競技”であると同時にスポンサートーナメントの先駆けでもあったわけだ。

 出場選手は「全日本から選りすぐられた優秀なプロ選手三十名」(『日本ゴルフドム』より)。同年の日本プロゴルフ選手権大会には48選手が出場しているから、ある程度絞られたフィールドであったことは間違いない。

 好天に恵まれた大会初日、1オーバーの145で回った浅見緑蔵が首位に立ち、1打差で陳清水、3打差で石井治作が追う展開となった。

 最終日は土曜日。この日も好天で多くのギャラリーが訪れ、『日本ゴルフドム』はその様子を「ゴルフ競技會で初めて見る観衆が集つた。千人以上は優に集つた。」と記述している。一方で『ゴルフィング』の記事中には「数百名の観衆」という文言がある。ともに筆者の主観的な数字だと思われるが、当時としては珍しいくらいの人数が多摩川の川べりに集まったことは事実だろう。

 

ブリヂストン招待の優勝者、陳清水(1968年撮影)

 

優勝争いは第3ラウンドで71をマークした陳が75の浅見を逆転。3位にいた石井は83と崩れて圏外に去り、陳と浅見の一騎打ちの様相を呈してきた。

 第4ラウンドに入ると浅見が逆襲。一時は陳を再逆転したが、16番で両者が並んだ。そして迎えた18番パー5、陳がバーディを奪ったのに対して浅見はボギー。陳が5オーバー、293で浅見を2打抑え、1000円の優勝賞金をつかみ取った。2位・浅見の賞金は400円、9打差ながら3位に入った戸田藤一郎は200円の賞金を獲得している。

 ブリヂストン招待が行われたのはこの年限り。たった1回の開催だったが、時代の先鞭をつけた意味は決して小さくなかったはずだ。

 

文/宮井善一

 

参考文献

『ゴルフィング』1936年11月号

『日本ゴルフドム』1936年12月号

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