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PERSON 書籍・雑誌

伊藤 長蔵

日本人の手による初めてのゴルフ雑誌
「ゴルフドム」(GOLFDOM)を創刊

 

伊藤長蔵
Chozo Ito
1887(明治20)~1950(昭和25)

甲南ゴルフ倶楽部の代表として
JGA発足に参画

 播磨の大地主、伊藤家に生まれた長蔵は、神戸高商(現・神戸大学)を卒業後、貿易業を営み、伊藤長商店の社長、太洋海運などの経営に携わる。兄・熊蔵(五代目・長次郎)は三十八銀行、加古川銀行の頭取、貴族院議員を歴任した関西経済界の名士であった。
 長蔵は1910年代に大谷尊由(浄土真宗本願寺派第21代法主、大谷光尊の五男)に随行した英国でゴルフと出合う。帰国後、鳴尾ゴルフアソシエーションの会員となった長蔵は、1920年代には大谷光明と海外のゴルフコースを視察する旅に出る。ロンドン滞在中には高畑誠一の案内で、英国の名門コースを訪れている。
 伊藤は英国滞在中に、英米のゴルフの文献から抜粋した資料を「ゴルファーズ・トレジャーズ」と名付けてロンドンの出版社から1925年に刊行している。
 チャールズ・ダーウィンの孫であり著名なゴルフジャーナリストであったバーナード・ダーウィンが前書きを記したこの「ゴルファーズ・トレジャーズ」は、日本人が海外で出版した唯一のゴルフ書であり、出版数が1,000部と少なく、著作権侵害の訴訟を受け絶版となったため、現在では入手困難な稀覯本となっている。
 伊藤は1922年頃に鳴尾ゴルフ倶楽部に入会。1924年には、関東・関西7倶楽部によるジャパン・ゴルフ・アソシエーション(JGA、のちの日本ゴルフ協会)の設立に甲南ゴルフ倶楽部の代表として参加。1926年には、帰国した高畑の進言を受け、関西ゴルフユニオン(KGU、のちの関西ゴルフ連盟)の結成にも尽力した。
 1932年開場の廣野ゴルフ倶楽部の造成にあたっては、高畑誠一とともにC.H.アリソンの補佐役を務め、現場監督として指揮に当たった。このとき、伊藤のアシスタントを務めたのは、後に日本を代表する設計家の一人となる上田治であった。
 欧米のゴルフコースを研究し、アリソンに設計を学んだ伊藤は、別府ゴルフ倶楽部(1930年開場、福井覚治との共同設計)や、現在の千里ニュータウン(吹田市)にあった大阪府営山田公園ゴルフ場(1935年開場。2,175ヤード、パー32の9ホール)の設計にも携わっている。

 

出版人として多くの名著を
世に送り出す

 伊藤長蔵は1922年に、日本人による初のゴルフ雑誌「阪神ゴルフ」を神戸で創刊。神戸、鳴尾、舞子、甲南の4コースしかなかった時代に創刊したゴルフ雑誌は、大戦不況の影響もあり、あえなく4号で休刊するも、大谷光明の援助を受けて「ゴルムドム」と改題し刊行。「ニッポン・ゴルフドム」と名前を変え、さらに太平洋戦争の影響を受け「日本打球」と改題した後、1944年2月の終刊まで、22年間にわたり刊行を続けている。
 また、「ニッポン・ゴルフドム」の版元であり、伊藤長蔵が社長、編集人、主要な執筆者として活躍した「日本ゴルフドム社」からは、ゴルフ叢書シリーズとして「ゴルフ千夜一夜」(1938年、近藤高男。後にペンネーム摂津茂和)、「ルール早わかりラウンド物語」(1941年、伊藤長蔵)などの良書が多数出版されている。

 

「GOLFDOM」(ゴルフドム)の1922年11月創刊号。名目上の発行人は日本初のプロゴルファー、福井覚治が務めていた

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