HISTORY ゴルフ場
日本で二番目のゴルフクラブ
1904年、横屋ゴルフアソシエーションの誕生
神戸ゴルフ倶楽部が設立された翌年(1904)、冬になるとプレーができなくなる六甲山上のコースだけでは満足できなくなった神戸ゴルフ倶楽部のメンバーの一人、ウイリアム・ジョン・ロビンソンが私財を投じ、現在の神戸市立魚崎中学校、瀬戸公園野球場あたりの海岸近くに造った6ホールのゴルフ場、これが、日本で2番目のゴルフクラブ、横屋ゴルフアソシエーションである。
横屋ゴルフアソシエーションの1番ティー。開場当時はティーインググラウンドもグリーンも砂で固めたものだった。「日本のゴルフ史」より転載
横屋ゴルフアソシエーションの創立者・ロビンソンは晩年、日本最初のゴルフ歴史書『日本のゴルフ史』の著者である西村貫一に、次のように語っている。
「日本のゴルフの初めは六甲。グルーム、コーンス、ギル、私初めました。大変な石と竹、初めの冬叢や竹に火をつけ焼く。皆灰芝の肥しになる。その事三年間同じの事をする。中々悪いの草の根死な無い、困る。六甲は冬大変に寒い。雪降る。最初の年の冬、ゴルフ下(下界)ない淋しい。私横屋でゴルフ始める。六甲を開いた人グルーム。それよろしい、私横屋を始めた初めの人、月六円金要る。メンバー十三人皆西洋の人、後になる ドント、ワレンもメンバーになる。その後日本の人安部サンこれ日本の人の初め、横屋でゴルフするの時六百円私独り出します。」(一部の漢字を現在のもの変換)
『日本のゴルフ史』(初版1930年、文友堂)に掲載されたこのインタビューは、1929年2月13日、東塩屋1070番地(現在の神戸市垂水区青山台)にあったロビンソンの自宅を西村が訪ねて行われたものである。当時、ロビンソンは78歳。「高齢であり、従って記憶力も弱っていられるので、話に順序も無く、年月日に関しては、ほとんど無頓着でありまして、記事になりませんでした」という西村の記述はあるが、事実関係に関しては概ね信用できるものであろう。
横屋の土地は「グルームが3人の仲間とともに1898(明治31)年頃、神戸外人居留地が条約改正されて内地雑居になるのを恐れて、その用意のために買っておいた土地で、1903(明治36)年にその必要がなくなりそのままになっていたものをグルームの好意により無償で借り受けたものであった」(『居留外国人による神戸スポーツ草創史』棚田真輔著より)という。
クラブハウスは、
日本初のプロ・福井覚治の実家
魚崎の海岸に面していたこの砂地に、土地の農家・福井藤太郎の力を借りて、ロビンソンはサンドグリーンの6ホールを造り上げた。クラブハウスとして使用されたのも、福井藤太郎の家であった。
横屋ゴルフアソシエーション、開場当時のヤーデージ
1番 | 226y |
2番 | 215y |
3番 | 280y |
4番 | 188y |
5番 | 191y |
6番 | 96y |
計 | 1196y |
『日本のゴルフ史』より
福井藤太郎は、日本初のプロゴルファーとなる福井覚治の父親である。当時の様子を、覚治はこう語っている。
「事の起りはロビンソンさんが土地を物色されて、今のリンクスの土地を管理していた私の父とロビンソンさんの番頭酒井さんの通訳でリンクス製作が契約されました。始めて西洋人の言葉を聞くので珍しかった訳です。それから打出の山から壁土を買い取って砂を混ぜて八間位のサンドグリーンを作り、ホールはロビンソンさんが錻力(ブリキ)のホールカップを持って来られそれを使って居ました。勿論ホールの直径41/4吋(インチ)あったかどうかは疑わしいものです。プレーヤーはロビンソン、ジヤックソン、トムソン、ドント、マッキー、ハルセン、ロカスさんと云った人達でした。調べて見れば日本人でやっていた人もあるらしいのですが誰も見た者がない。恐らくラウンドなどせず、クラブを握っただけと云う位のことなのでしょう。私の眼に入ったのはその数年後、倫敦(ロンドン)から帰って正金銀行神戸支店長になられた安部成嘉さんです」(ゴルフドム1930年3月号「福井覚治 始めを語る」より)
横屋の少年キャディたち。後列左の白シャツが福井覚治。「日本のゴルフ史」より転載
横屋から鳴尾へ
日本人の会員(安部成嘉)も加わり、順風満帆かに見えた横屋ゴルフアソシエーションであったが、1913年、グルームが日露戦後恐慌のあおりを受け横屋の土地を売却したことにより廃止を余儀なくされる。
新たなゴルフコース用地を求めたロビンソンが、当時の日本を代表する総合商社・鈴木商店が所有していた鳴尾速足競馬場の跡地を無償で借り受けて設立したのが、鳴尾ゴルフ倶楽部の前身、鳴尾ゴルフアソシエーション(1914年設立)であった。
「一年中、ゴルフがしたい」というロビンソンの情熱から生まれた横屋ゴルフアソシエーションは、鳴尾ゴルフアソシエーションを経て鳴尾ゴルフ倶楽部の誕生へとつながるだけでなく、その跡地に甲南ゴルフ倶楽部を生み出し、のちには舞子、廣野へとつながる関西ゴルフ史の源流となる。グルームの蒔いたゴルフの種を、ロビンソンが育て、ゴルフはしっかりと日本の地に根付いたのだ。
文/近藤雅美
参考文献:
「日本のゴルフ史」西村貫一著、1930年初版、文友堂
鳴尾ゴルフ倶楽部100年誌「naruo spirit」
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