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PERSON ゴルフの先駆者

加賀 正太郎

茨木カンツリー倶楽部設立に大きく貢献

 

加賀正太郎
Syotaro Kaga
1888(明治21)~1954(昭和29)

 大阪府の茨木カンツリー倶楽部東コースは現存する18ホールのコースとしては、日本で二番目に古い存在である。1925年にスコットランドのプロ、ダビッド・フードの設計で開場、その後C.H.アリソン、井上誠一と二人の設計家の改造を経て現在に至る。しかし、倶楽部の創立メンバー、そして開場してからアリソンへの橋渡し役として忘れてならないのが加賀正太郎だ。
 加賀は1888年に大阪の資産家の跡取り息子として生まれた。東京高等商業学校(現・一橋大学)に在学中の1910年渡欧、スイスに立寄ってアルプスの4000m峰・ユングフラウの日本人初登頂という名誉を得た。30歳を過ぎた頃、大阪の社交クラブ・大阪倶楽部でゴルフ場建設の機運が盛り上がると、その創始メンバー12人の一人として廣岡久右衛門正直らとともに名を連ねた。

 

茨木CCの改造

 茨木近郊の用地を廣岡らとともに確認した後、1923年、加賀は妻・千代を伴って欧米外遊に旅立った。半年後、帰国したときには既にダビッド・フードの設計によりコースの建設が始まっていた。ところが、欧米の著名なコースを視察した加賀の眼には、茨木の現地はあまりにも貧弱に映ったのだ。
 コースは1925年に18ホール5812ヤードPAR69という規模で開場したが、加賀はすぐさま社債を募集してコース改造のための資金を集め理事会に改造案を提出した。加賀がめざしたのは「自然の地形はできるだけ損じたくない」、そして、可能な限りOBをなくし、6000ヤード以上のコースにしたいというものであった。コースに隣接する好適地を見つけては取得し、土木工事を繰り返した。「何分改造に次ぐ改造で、至る処コースを掘り返し自然各方面から不平や不満が加賀君に集中し」(『思い出の記』廣岡久右衛門)というありさまながら、加賀はひるまなかった。その結果、1929年には6300ヤード、PAR72というコースが実現したのだ。

 

C.H.アリソンへの橋渡し

 加賀はこれでは満足しなかった。さらに第二次改造計画の案を練っていたところに来日したのが、かのC.H.アリソンである。1931年1月、加賀は自らの大山崎山荘でアリソンをもてなし、アリソンのコース視察の際には、実際に杭を打って改造の原案を説明したという。アリソンは後日、7つのホールのグリーンの図面とともに、コースの改造プランを倶楽部に提出した。
 この改造を経て、コースは6460ヤード、PAR72となった。この間、1929、1930、1932年の3回、日本オープンが開催され、いずれも所属の宮本留吉が勝利を収めた。雑誌「ゴルフドム」は1932年の日本オープンについて、次のように報じている。「茨木コースはアリソン氏と加賀正太郎氏自身の考案に基き巨費を投じて昨年来改造されつつあったが見事に完成して、日本ゴルフの第一人者を選ぶにふさわしいファインテイストを提供した」。
 加賀正太郎の情熱の赴くところ、この他にもニッカウヰスキーの前身「大日本果汁株式会社」創立時の大株主として竹鶴政孝を支援したこと、自ら設計と建設に熱中した山荘は現・アサヒグループ大山崎山荘美術館として優美な空間を提供していること、山荘にこしらえた温室ではあまたの種類の蘭を育て『蘭花譜』と題した図録に結実させたことなどを付記しておく。

 

文・河村盛文

 

参考文献:茨木カンツリー倶楽部創立10周年記念誌、同100周年記念誌
肖像写真:加賀高之氏提供

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