HISTORY ゴルフ場
日本初の民営パブリックコース
1917年開場。
皇太子もプレーした
仙石ゴルフコース
仙石ゴルフコースの創始者である山口正造(やまぐち しょうぞう、1882- 1944)は、栃木県・日光金谷ホテルの経営者・金谷善一郎の次男として生まれている。英学を教える私塾・立教学校(現在の立教大学)で学んだのち、世界一周を目指して17歳でアメリカに渡り、カナダを経て英国に至る。日本の英国大使館でボーイをしながら英国の文化や一流ホテルの在り方などを学んだという。
山口は1906(明治39)年に帰国し、翌1907年、25歳で箱根富士屋ホテルの創業家である山口家の婿養子となり二代目経営者として手腕を発揮していく。
欧米先進国の一流ホテルでは、ホテル専用のゴルフ場を所有していることを知った山口は、富士屋ホテルもゴルフ場を所有するべきだと考えていた。大正4年、仙石原(現・神奈川県箱根町)にゴルフ場を建設し、同時に猟区を設定してホテルの設備の一つとしようと決断する。
当時の神奈川県知事であった石原健三に諮り同意を得ると、山口は「箱根ゴルフ及銃猟倶楽部」(The Hakone Golf and Hunting Club)を設立、同好の士を募りゴルフコースの建設に取り掛かる。
仙石原村会もこれに賛同し、1915(大正4)年9月30日、仙石原村有地にゴルフ場を建設する契約が締結されている。
開場間もない仙石ゴルフコース
1920年、富士屋ホテル経営の
民営パブリックに
1917(大正6)年4月、ニッポン・レース・クラブ・ゴルフフィング・アソシエーション(横浜・根岸)のキャプテンだったF.E.コルチェスターの設計で造成が始まり、7月には7ホールが完成。宮ノ下の御用邸に避暑中の摂政宮(のちの昭和天皇)がプレーされたという。同年12月には9ホールが完成。翌年にはクラブハウスが新築された。
仙石ゴルフコースが民営のパブリックコースとなったのは、1920年のことである。経営が立ち行かなくなった箱根ゴルフ及銃猟倶楽部が富士屋ホテルにゴルフ場を譲渡するかたちとなったため、パブリックコースとして運営されることになったのである。
1935(昭和10)年には赤星四郎の設計で18ホール、6,320ヤード(現在6,651ヤード)となる。1937年にはクラブハウスの増築が行われ、付属ホテルが完成している。
戦時中は閉鎖され、戦後は米軍が接収。1952年にようやく返還され、以後は再び富士屋ホテルが所有する民営パブリックの富士屋ホテル仙石ゴルフコースとして現在に至る。
仙石を訪れた摂政宮(のちの昭和天皇)。写真右から3番目
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