HISTORY ゴルフ場

多摩カンツリー倶楽部・平山コース(1928~1938年)

倶楽部の再興と組織化

 多摩カンツリー倶楽部(以下、多摩CC)は1928(昭和3)年に設立された。そのきっかけは、かつて同地に所在した武蔵野カンツリー倶楽部(以下、武蔵野CC)・平山コースが、1926(大正15)年の千葉県六実への移転に伴い閉鎖を余儀なくされた際、会員らの間で高まったコース存続への強い要望に始まる。
 一度は閉ざされた平山の地を再びゴルフ場として再生すべく、組織化の中核を担ったのは当時三菱合資会社地所部長を務めていた赤星陸治(のちの三菱地所初代会長)である。赤星らの尽力により新倶楽部の結成は結実し、1928(昭和3)年4月8日午前10時(註1)、赤星自らによる始球式をもって多摩CC・平山コースとして開場の日を迎えた。さらに、1930(昭和5)年11月には社団法人組織(註2)へと改組。これにより、単なる親睦団体を超えた、社会的責任を有する公的組織としての基盤が確立された。

 

1931年頃の平山コース(写真:丸山清三郎所蔵)
1番ホールフェアウェイからクラブハウスを望む。左下に子供の遊び場、右上はローンテニス(天然芝)コート
 

大衆主義とゴルフの普及

 平山コース再開当時の多摩CCの入会金はわずか10円(注・2026年現在の価値にして2万円~4万円程度と考えられる)、会費は月額2円という極めて安価な設定であった。入会金はその後、1931(昭和6)年に50円、会費は月額3円へと改定されたが、依然として当時の中産階級にとって手ごろな価格水準を維持していた。

 こうした大衆化を大きく支えた要因のひとつに、庶民ゴルファーの「足」となった鉄道の存在がある。『多摩のあゆみ 第一一六号』によれば、「玉南電気鉄道は大正15年(1926)に京王電気軌道に吸収合併された。新宿~東八王子間の直通運転は昭和3年から開始され、1日56往復の直通電車が所要時間68分で快走した」(註3)と記されている。多摩CCは京王電気軌道(現・京王電鉄)と提携して運賃割引制度を設けており、この鉄道網の整備と高い利便性が、自家用車を所有しない層でも気軽にゴルフ場へ通える環境を創出したと考えられる。なお、1931年発行の資料(註4)によれば、多摩CCは以下の特色を掲げていた。

 

  • 庶民主義の徹底:「ブル気分(注・ブルジョア気分)を出す人は誰も相手にしない」という独自の気風があり、地位や身分に関わらず、誰もがゴルフを純粋に楽しめる環境を追求した。
  • 家庭への配慮:ゴルフに熱中して家庭を顧みない「ゴルフ・ウィドウ(golf widow)」を作らぬよう、家族の来場を歓迎し、敷地内には子供用の遊具やテニスコートを整備した。
  • 利便性の向上:京王電気軌道(現・京王電鉄)との連携により運賃割引制度を設けるなど、交通面からも大衆化を後押しした。

 

朝香宮・久邇宮両殿下の御来遊と「名物の豚汁」

  1929(昭和4)年春、多摩CCにとって歴史的な出来事が起こった。昭和天皇の従弟にあたる朝香宮孚彦王(あさかのみや たかひこおう)殿下(当時17歳)、および皇后の兄である久邇宮朝融王(くにのみや あさあきらおう)殿下(当時28歳)が、平山コースへ御来遊されたのである。

 東京近郊で最も手ごろなプレー費を掲げる庶民的なゴルフ場に、宮様が足を運ばれたのは初めてのことであり、関係者は驚きとともに、大きな喜びに沸き立ったという。

両殿下はコースでのプレーを楽しまれた後、クラブハウスにて昼食をとられた。その際、平山名物の「豚汁」を大変気に入られ、揃ってお替わりをされたという。このエピソードは、名門倶楽部のような贅沢な社交場とは一線を画す、多摩CCならではの素朴で温かなもてなしを象徴するものとして語り継がれている。

 

サンドグリーンの頃の11番ホール(写真:丸山清三郎所蔵)

 

地域社会とキャディーの子供たち

 平山コースが最も栄えた多摩CC時代、倶楽部は地域経済と密接に関わっていた。地元の小学5、6年生にとって、ここは貴重な小遣い稼ぎの場でもあった。子供たちは学校から帰ると、武蔵野CC時代から引き続き自宅をクラブハウス代わりに提供している支配人の杉山又吉宅で点呼を受け、コースへと急いだ。
 当時のキャディーであった杉山寅三郎は、「1ラウンド30銭から40銭もらえてよいアルバイトでした。キャディーをする子供は、杉山又吉さんの家の黒板に名前を書き、上から順に仕事に出ていきました。要領のいい子は、前の晩に名前だけ書きに行ったりしてね。」(註5)と回顧している。長く続けるうちに固定客がつく子もおり、ゴルフ場は地域の人々や子供たちの生活の一部として欠かせぬ存在となっていた。

 

コースの質的向上と18ホールの完成

 当初は9ホールでの再出発であったが、1929(昭和4)年秋には12ホールへと拡張。同時に、それまでのサンドグリーン(砂を固めたグリーン、図2参照)やサンドティーをすべて高麗芝へと張り替え、質の向上が図られた。また、同年11月には新クラブハウスを着工し、翌年1月2日に完成、記念トーナメントも開催された。
 最終的には、アウトを北本佐一郎、インを杉山又吉が設計した18ホール(4,015ヤード、パー61)が完成した。距離は短いながら「ショートコースとしては、他の追随を許さぬ面白さ」と評され、富士山や諸山を望む絶景とともに多くのゴルファーを魅了した。

 

NO H.D.P Yards Par NO H.D.P Yards Par
1 7 255 4 10 10 195 3
2 11 170 3 11 3 365 4
3 1 360 4 12 8 210 3
4 4 320 4 13 18 120 3
5 12 165 3 14 2 445 4
6 14 145 3 15 15 135 3
7 5 255 4 16 6 255 4
8 9 210 3 17 17 125 3
9 16 130 3 18 13 155 3
    2,010 31     2,005 30
            4,015 61

 

多摩CC平山コースの昭和12年頃のスコアカード『GOLF新年号』(1954年)及び『世界ゴルフ大観-日本篇 新版日本ゴルフ60年史』(1977年)より転載

 

時局の悪化と閉鎖、そして現在

  『平山をさぐる―鯨陵源とその時代』によれば、1937(昭和12)年の盧溝橋事件以後、ゴルフが「敵性スポーツ」とみなされ制限が強まったことで客足は激減し、多摩CCは1938(昭和13)年1月6日に閉鎖された。しかし、支配人を務めていた杉山又吉の長男・連一の証言によれば、実際には1940(昭和15)年頃まで密かにプレーが行われていたという。(註6)
 閉鎖後のコースはスキー場やハイキングコースとしての利用を経て、戦後の宅地開発によりその多くが住宅地となった。現在は一部が「都立平山城址公園」となっている。大澤山宗印寺(東京都日野市)裏手の山には今もクラブハウスの基礎跡が残り、その傍らには平山コースと2つの倶楽部(武蔵野CC及び多摩CC)の発展に尽力した杉山又吉を称える「功労記念・杉山又吉君の碑」が建立され、当時の記憶を今に伝えている。

 

文/井手口香

 

(註)

1)井上勝純『日本ゴルフ全集4 日本ゴルフコース発達史⑵』三集出版、1994年、p.35
2)文部省 編『法人一覧(昭和8年)』大15至昭14、p.5
3)たましん歴史・美術館歴史資料室『多摩のあゆみ第一一六号』公益財団法人たましん文化財団、2017年、p.20 
4)「平山ゴルフリンクスについて」『GOLF DOM 1月号』1931年
5)日野市生活課『平山をさぐる―鯨陵源とその時代』1994年、p.21
6)同前、p.44

 

参考文献

「平山ゴルフリンクスについて」『GOLF DOM 1月号』1931年
東山生「多摩カンツリー倶楽部の此頃」『GOLF DOM 5.6.7月合併号』1931年、p.62
彦里砂太「私のゴルフ回想③創立時代の多摩平山」『GOLF新年号』1954年、p.48-49
日野市生活課『平山をさぐる―鯨陵源とその時代』1994年
たましん歴史・美術館歴史資料室『多摩のあゆみ第一一六号』公益財団法人たましん文化財団、2017年
摂津茂和『世界ゴルフ大観-日本篇 新版日本ゴルフ60年史』ベースボール・マガジン社、1977年
井上勝純『日本ゴルフ全集4 日本ゴルフコース発達史⑵』三集出版、1994年

INDEX

Recommend

Most Viewed

Pickup Keyword

JGAゴルフ・ミュージアム 日本ゴルフ殿堂