HISTORY ゴルフ場
広島ゴルフ倶楽部八本松コース
はじめに
広島におけるゴルフの歴史を遡ると、広島県出身の洋画家・南薫造が、広島第一中学校(現・広島国泰寺高校)の同級生で親友であった天野進作と共に、当時の広島市大須賀町(現・広島市南区大須賀町)内にあった「東練兵場」で球を打ったことにその端緒を見出すことができる。その後、1923(大正12)年6月、同地に「二葉ゴルフ倶楽部」が誕生した。中国地方において最初に組織されたゴルフ倶楽部である。コースは、通称「二葉リンクス」と呼ばれ、『全国ゴルフ場案内:日本ゴルフ年鑑 昭和12年版』(註1)によるコースの規模は、9ホール・2525ヤード・パー33。軍施設内という制約上、特異な条件下での運営を余儀なくされたが、安価なプレー費も手伝い、この地は広島、ひいては中国地方におけるゴルフの「原点の地」となったのである。
やがて愛好家の技術向上とともに、市街地に隣接する練兵場の安全性や規模への物足りなさが課題となる。こうして「二葉リンクス」は練習用コースとしての性格を強め、代わって広島市中心部から東へ約30キロ(車や鉄道で約1時間)、当時の賀茂郡原村(現・東広島市八本松町原)に位置する小関山一帯に、約11万6千坪の敷地を有する本格的な新コースが計画された。設計を託されたのは、米国カリフォルニア州滞在時に佐藤儀一らと共にゴルフの腕を磨き、帰国した中村尋である。
本稿では、この「八本松」の地へと引き継がれた広島ゴルフ倶楽部の足跡をたどるべく、まず、同GCの設立と八本松コース開場時期の再検証を行う。次いで、同コースにおける造成工事の過程やレイアウトの詳細、および正式な開場日を明らかにする。その上で、八本松コースが戦時下の閉鎖から戦後の用地転用を経て、現在の広島カンツリー倶楽部八本松コースとして再生を果たすまでの変遷を詳述する。(以下、適宜「広島GC」「広島CC」の略称を用いる)

『GOLF DOM』1930年10月号より「広島ゴルフ倶楽部八本松コース、5番・6番ホールを望む」
広島ゴルフ倶楽部の設立と
八本松コース開場時期の再検証
⑴ 倶楽部設立の時期について
広島GC『鈴が峰50年史』(2003年)には、「社団法人広島ゴルフ倶楽部の前身である旧広島ゴルフ倶楽部は、1928(昭和3)年春、天野進作が設立発起人代表となり、南薫造、熊己義憲、松坂義正、鈴川貫一等発起人の熱意で賀茂郡原村(中略)に会員50人で設立された。1929(昭和4)年5月13日開場」(註2)と記されている。
かつて広島市内の東練兵場を拠点としていたゴルファーたちは、「二葉ゴルフ倶楽部」を組織して活動していた。その後、同倶楽部を発展的に解消し、八本松に本格的なコースを建設するにあたって「広島ゴルフ倶楽部」を設立、組織を刷新したことは、当時の状況から見て自然な流れであったと考えられる。しかし、ここで改めて、倶楽部創設の時期を「1928(昭和3)年」とする記述の妥当性について、当時の動向を裏付ける史料とともに再検討したい。
『中国新聞』1929(昭和4)年1月9日付の記事には、「ゴルフ遠征」と題し、「広島ゴルフ倶楽部天狗連、松坂、長崎、林など十一人が正月そうそう福岡へ他流試合に出かけ、対抗戦の結果は四勝四敗と引き分けであった」(現代語訳)との記録がある。この記事から、1929(昭和4)年初頭の時点で、すでに「広島ゴルフ倶楽部」の名称で活発な対外活動が行われていたことが確認できる。年明け早々の遠征というスケジュールを考慮すれば、その前年である1928(昭和3)年中に倶楽部が組織・創設されていたとする記述は、史実として極めて妥当であると結論付けられる。
⑵ 「1929(昭和4)年5月13日開場」説への疑義
八本松コースの開場日については、長年議論の対象となってきた。従来の記念誌(広島CC『20年のあゆみ』『30年のあゆみ』、および広島GC『鈴が峰50年史』等)では、いずれも「1929(昭和4)年5月13日」を開場日として記載している。これに対し、井上勝純は著書『日本ゴルフ全集4日本ゴルフコース発達史(2)』(1994年)において当時の新聞記事を詳細に追跡し、この通説に異議を唱えた。井上の指摘によれば、『大阪朝日新聞』1929(昭和4)年10月25日付の記事で「ゴルフ場計画、賀茂郡原村に」と計画段階の進捗が報じられ、翌1930(昭和5)年6月3日付の記事においてようやく「6月1日に開場式を挙行した」旨が記されているという。井上は、これら新聞報道の推移から「昭和4年5月13日開場説は信じがたい」(註3)と結論付けている。
それにもかかわらず、各記念誌が頑なに「1929(昭和4)年5月13日開場」説を採り続けてきた背景には、当時の関係者の証言があった。広島CC『20年のあゆみ』(1975年)によれば、当時の支配人・梶原龍男が「(開場日は)昭和4年5月13日です。旧原村史に記録が残っております」(註4)と明言しており、この証言が公的な記録として定着する根拠となったのである。
⑶ 『原村史』の精査による検証
そこで筆者は、先行研究において未着手の課題として残されていた『原村史』を改めて精査するとともに、井上同様、当時の新聞各社による報道記事との照合・検証を行った。その結果、これまでの通説を覆す開場に至るまでの以下の経緯が明らかとなった。
① 誘致と仮契約(1929年5月)
『原村史(上巻)』(1967年)によれば、原村へのゴルフ場誘致は、同村出身の影山静人氏の斡旋により開始された。その尽力により、1929(昭和4)年5月13日、村長・佐々木源太郎と広島GC代表者・平野春一との間で、ゴルフリンクス使用を目的とした「用地貸付の仮契約」が締結されている。つまり、長年「開場日」と信じられてきた5月13日は、正確には「用地確保の合意」を意味する「仮契約日」であったことが、原本調査により判明した。
また、同史には仮契約後、「広島ゴルフ倶楽部が山陽ゴルフ倶楽部と改名されることになり」(註5)との記述がある。この組織変更については、1929(昭和4)年6月15日付の『中国新聞』において、「広島ゴルフ倶楽部は組織を改め新会員を募集」(図1)と報じられている。その記事には、「今回大々的に新会員の募集をなすとともに山陽ゴルフ倶楽部と改称、財団法人組織にして…」と記されていた。

(図1)『中国新聞』1929(昭和4)年6月15日付
広島GCの財団法人化と新会員募集を伝える記事
(見出しには「十五万坪のゴルフ場」とあるが、土地の仮契約時点での面積は約10万1千坪であった)
② 本契約(1929年10月)
広島GCは「山陽ゴルフ倶楽部」と改名し、改めて村会の議決を経て、1929(昭和4)年10月1日、正式な賃貸借契約および立木伐採等の覚書が交換された。この「本契約」における貸借条件は以下の通りである。
• 契約締結日:1929(昭和4)年10月1日
• 貸主:原村長 佐々木源太郎
• 借主:熊己義憲、松坂義正、天野進作、鈴川貫一
• 借地面積:原村字小関山甲1083番地の1の内、実測面積38町6反歩(約11万6千坪)
• 貸借期間:1929(昭和4)年10月から1949(昭和24)年9月まで 20か年
• 賃貸料金:1か年 900円也(2026年現在の価値に換算すると、約180万円)
『大阪朝日新聞』1929(昭和4)年10月25日付の記事(図2)は、まさにこの本契約の締結を受けて報じられたものである。同記事が「広島地方のゴルファーが、原村長から広島県知事に対して貸与許可の申請を出した。近く県の山林課による実地調査が行われる予定である」(現代語訳)と伝えている内容は、本契約によって事業が公的な認可プロセスへと移行した事実を裏付けている。
以上の史料検証から、1929(昭和4)年5月の段階ではようやく用地確保の合意(仮契約)に至ったに過ぎず、本格的なコース造成および開場への歩みは、組織体制を整えた「10月の本契約」以降に本格化したものと断定できる。

(図2)『大阪朝日新聞』1929(昭和4)年10月25日付
⑷ コース造成工事の過程、およびレイアウトと正式開場日
八本松コースの造成工事については、これまで詳細な記録が乏しかったが、1930(昭和5)年1月7日付の『中国新聞』の記事(図3)により、その進捗と設計上の詳細が明らかとなった。同記事によれば、中村尋がコースレイアウトのみならず「附属建物などの設計」も託されており、クラブハウス等の附帯施設を含めた総合的なプロデュースを担っていたことが確認できる。工事の進捗については、1930(昭和5)年1月の段階で「事務所その他の附属建物の上棟式」が挙行され、披露宴が行われたと報じられている。建物の完成が先行する一方で、コース内の立木伐採については「(1月)8日から数日間内に村民総出で一斉に伐採すべく」と記されている。
また、レイアウトに関しても重要な事実が判明した。同記事によれば、当初は18ホールではなく「大小15区(ホール)」として計画・整備され、コース面積には7万5千坪が充てられていた。さらに、コース建設は単なる倶楽部の事業にとどまらず、村を挙げた一大プロジェクトでもあった。記事には「村内の道路拡張、橋梁の架設、土堤の修繕工事などを断行する」とあり、ゴルフ場の建設が原村のインフラ整備や、新たな遊覧地としての地域振興と密接に結びついていた様子が読み取れる。

(図3)『中国新聞』1930(昭和5)年1月7日付
ここで、1930(昭和5)年6月8日に設計者・中村尋の案内で完成直後の八本松コースを2周したという、福本福一の記録(註6)に基づき、開場当時の具体的なレイアウトを確認したい。以下は、当時のゴルフ雑誌『GOLF DOM(ゴルフドム)』1930年10月号に掲載された福本の寄稿「八本松ゴルフリンクス」の内容を、筆者が現代語に改めて要約・編集した各ホールの解説とコースの総評である。
- 1番(328ヤード/パー4)
フェアウェイは比較的広く、1打目を少々スライスしたりフックしたりしても、大きなトラブルにはならない。ただし、グリーンはバンカーに囲まれているため、正確なセカンドショットが要求される。 - 2番(305ヤード/パー4)
約150ヤード地点に、幅10ヤードほどある深い谷が横たわっている。そのため、ティーショットでボールをトップさせることは絶対に禁物である。 - 3番(367ヤード/パー4)
コース中で最も難しいホールの一つ。220ヤード付近に、2番ホールから続く谷が斜めに走ってハザードとなっている。飛距離が出る人はスプーン(3番ウッド)でティーショットを打つ方が安全だ。グリーンへ直線的に狙うと右の松林に入る恐れがあるため、ティーショットはやや左を狙うのがよい。グリーンの入り口が狭く、セカンドショットには誰もが苦労する。 - 4番(445ヤード/パー4)
ティーの位置をあと2、30ヤード下げてパー5にすべきホールだろう。現在のままでは、よほど運が良くない限りパーは出ない。フェアウェイはやや上り傾斜でグリーンは見 えず、ティーから200ヤード辺りで右へ大きく傾斜しているため、ナイスショットでも安全とは言えないことが多い。グリーンの手前50ヤードから下りになっており、セカンドショットが不運にも横へキックすると、大きなバンカーにつかまってしまう。 - 5番(395ヤード/パー4)
ここもブラインドホールである。フェアウェイの中ほどが小高くなっており、弾道の高いドライブを打たないと越えられない。少しドッグレッグしているため、フックやスライスをすると松林に入る恐れがある。かなりのロングドライブを放っても、セカンドショットは多くの場合「つま先下がり」や「左足下がり」のライから打つことになる。グリーンは窪地にあり、周囲を大きなバンカーが囲んでいるため入り口は狭い。しかも下り傾斜になっているのでオーバーしやすく、少々無理のあるパー4という印象を受ける。 - 6番(148ヤード/パー3)
ティーの直前に溝があり、フェアウェイの右側に沿って池がある。さらにグリーンの前には大きなバンカーが二つ並んでおり、パー3のホールとしては申し分ない。 - 7番(350ヤード/パー4)
このホールは改良の余地がある。ドッグレッグになっており、ティーから約180ヤードのところに深い谷が横たわっている。飛ばし屋なら松の小立を越えてショートカットも可能だが、アベレージプレーヤーはティーショットに困るだろう。中途半端なドライブだと谷に落ち、その上スライスやフックも禁物であるため、ティーをもう少し前に出すか、谷を埋め立てるべきだと考える。谷さえ越えれば、アプローチはそれほど困難ではない。 - 8番(217ヤード/パー3)
グリーンの手前約30ヤードにある池が重要なハザードとなっている。グリーンが右へ傾斜しすぎている感はあるが、全体としては申し分ない。 - 9番(515ヤード/パー5)
ティーから約170ヤード、フェアウェイの左側に池がある。スライスさせようとすると松林が邪魔になり、セカンドショットに困る。また、グリーンの手前約50ヤードにある細長い池がハザードとなっているため、250ヤードのドライブを放ってもブラッシー(2番ウッド)やスプーンが使えなくなる。距離が500ヤード以上あるこの状況で、池がプレッシャー(原文には「メンタル・ハザード」とあった)を与えるため、グリーンの手前に池があるのは不合理ではないだろうか。 - 総評
9ホールのトータル距離は3070ヤード、パー35。 グリーンはすべてサンド(砂)グリーンだが、将来的には茨木カンツリーや六甲(神戸)に劣らないものにする計画がある。出来たばかりのコースなのでフェアウェイのコンディションについてとやかく言うべきではないが、周囲の景色はゴルフ場にふさわしく、手入れ次第では将来、日本一を争うコースになる可能性を秘めている。
前述の新聞報道では「15ホール」とされていたが、実際には上記の9ホールに加え、10番、11番、12番の3ホールが「エキストラホール(練習用ホール)」として整備されていたことが判明した。そして何より注目すべきは、同記録の中に「八本松コースの開場日は1930(昭和5)年6月1日」とはっきり記されている点である。

『GOLF DOM』1930年10月号より「八本松コース開場日に模範競技中の中村尋(左)と川崎保(右)」
また、1930(昭和5)年6月3日付の『大阪朝日新聞』は「ゴルフリンク開場式擧行 模範試合に次いで祝宴」(原文ママ)の見出しを掲げ、当日の様子を次のように報じている。「広島ゴルフ倶楽部の賀茂郡原村ゴルフ・リンク(ス)は第一期工事が完成したので、一日(6月1日)午前十時から官民有力者を招待し開場式を挙行。始球式に次いで川崎(保)、中村(尋)両氏による模範試合が行われ、正午より祝宴、午後は会員による試合が開催された」(現代語訳)
以上の通り、当時の新聞報道、および実際に現地を訪れたプレーヤーによる記述を照らし合わせることで、八本松コースの正式な開場日は「1930(昭和5)年6月1日」であったという事実が、改めて確認された。

(図4)『大阪朝日新聞』1930(昭和5)年6月3日付
⑸ 八本松コースの18ホール拡張と近代化への軌跡
2012(平成24)年、広島ゴルフ倶楽部八本松コースのレイアウト変遷を紐解く上で、極めて重要な資料が発見された。広島カンツリー倶楽部会員・高橋正光氏が歴史資料を調査する過程で、同倶楽部より貸与された資料の中から一枚の図面を見出したのである。それはA4判ほどの用紙に「広島ゴルフ倶楽部旧八本松コース(縮尺5,000分の1)」(図5)と記されたもので、そこには18ホール拡張後のレイアウトとともに、各ホールの距離が書き込まれていた。これまで、18ホール時代の資料はヤーデージ等の数値データ(表1)に限定されており、具体的なコース形状は不明であったが、この発見により当時のコース全容の把握が可能となった。さらに本図面と広島CC『20年のあゆみ』(1975年)に掲載されている12ホール時代の図面を比較検証した結果、既存の12ホールに6ホールを付加したのではなく、コース全体を再編成して18ホールを構築していた事実が判明した。
さて、八本松コースが18ホールへと拡張されるに至った経緯については、かつて広島ゴルフ倶楽部の「書記」を務め、後に広島カンツリー倶楽部の初代支配人となった森島勉の記録(註7)に基づき整理したい。森島によれば、1933(昭和8)年、広島ゴルフ倶楽部では会員数が約100名に達し、「12ホールでは手狭である」との議論から18ホールへの拡張が決定したという。この拡張期において、現場の最前線にいたのが森島である。森島は当初の造成時、設計・管理の全権を掌握していた中村の助手として尽力し、コース開場後は書記に就任していた。同GCにおける書記とは、実務上の責任者である現在の「支配人」に近い役職であったと考えられる。事実、『広島スポーツ100年』(1979年)には、当時の会員の証言として「森島ハウスキーパーが支配人のような仕事をしていた」(註8)との記述もあり、森島が実質的な運営に携わっていたことが読み取れる。一方の中村は「所属プロ」として倶楽部を支えていたが、開場から2年ほどで退職。その後は八丁堀京口門付近(現・広島市中区八丁堀3丁目、京口門跡付近)にゴルフ練習場を開設した。中村はそこでゴルフ用具の販売を手掛ける傍ら、「ベビーゴルフ・コース」(昭和初期に日本で流行した、現在の「パターゴルフ」に相当)を併設するなど、新たな拠点からゴルフの普及活動に尽力していた。
こうした事情から中村不在となった拡張工事において、実務の全責任は森島の肩に託されることとなった。森島は拡張・改修にあたり、1932(昭和7)年に開場した廣野ゴルフ倶楽部(チャールズ・H・アリソン設計、兵庫県三木市)へ、2カ月間にわたる実務研修に赴いた。ここで当時国内最先端であったコース管理技術とアリソン流の設計思想を深く学び、その知見を地元広島へと持ち帰ったのである。帰郷後の森島は、土地の追加確保から既存ホールの改造、さらには各グリーンへの給水設備の敷設に至るまで、徹底した近代化を断行した。特にフェアウェイやラフ、およびサンドグリーン(砂グリーン)を、従来の野芝や笹から「オール高麗芝」へと一新したことは画期的であり、コースの品質を大幅に向上させた。こうした大規模な改修を経て、1934(昭和9)年10月7日、待望の18ホールが完成に至った。

(図5)提供: 高橋正光氏(広島カンツリー倶楽部)
広島GC八本松コースの18ホールのレイアウト図面(トータル5540ヤード、パー70)
|
No. |
Yard |
Par |
No. |
Yard |
Par |
|
1 |
325 |
4 |
10 |
350 |
4 |
|
2 |
150 |
3 |
11 |
270 |
4 |
|
3 |
305 |
4 |
12 |
120 |
3 |
|
4 |
367 |
4 |
13 |
515 |
5 |
|
5 |
450 |
5 |
14 |
165 |
3 |
|
6 |
398 |
4 |
15 |
415 |
4 |
|
7 |
300 |
4 |
16 |
400 |
4 |
|
8 |
200 |
3 |
17 |
170 |
3 |
|
9 |
485 |
5 |
18 |
300 |
4 |
|
OUT |
2980 |
36 |
IN |
2705 |
34 |
|
|
|
|
Total |
5685 |
70 |
(表1)『全国ゴルフ場案内:日本ゴルフ年鑑 昭和12年版』に掲載された広島GCのスコアカードに基づくヤーデージ(※18ホールのレイアウト図面に記載されたヤーデージとの間に合計145ヤードの差異が確認されるが、設定パーに変更はなく、コースの基本構成に大きな差異はないと判断できる)
八本松コースの様相とプレー環境
開場当初の組織実態やコースの規模については、当時の会員による貴重な証言が遺されている。以下、広島CCが発行した記念誌(『20年のあゆみ』等)に基づき、戦前の広島GC八本松コースの様子をまとめる。
1931(昭和6)年の会員名簿によれば、当時の会員数は52名(別資料には50名との記載あり)という極めて少人数の組織であり、初代キャプテンには天野進作が就任した。ハンディキャップは最多でも「24」に設定され、競技会の参加者は20名程度。当時のゴルフは、ごく限られた層による社交の場であり、倶楽部内は極めて家族的な雰囲気に包まれていた。その一方で、英国式のマナーやエチケットが厳格に守られていたのも事実である。当時の会員・神田吾朗は、「洋服を仕立てる際、ニッカ(ニッカーボッカーズ)だけは別に注文した。ゴルフ専用の服を作らないと、コースへは来られませんよと言われた」と、その厳格なドレスコードを振り返っている。
続いて当時の入会金は、既存会員が100円(2026年現在の価値に換算して約30万〜40万円)、新会員は200円(同約60万〜80万円)。しかし、これだけで運営が賄えたわけではなく、コース改造のたびに追加の拠出を求められたという記憶を持つ会員も多い。なかには、多額の改造費を寄付した会員の名を冠した「坂本ホール」のような名物ホールも存在した。当時の八本松コースは、周囲に池や田、墓地が点在する比較的平坦な構成で、会員たちにとっては「愉快に楽しめるコース」であった。しかし、豊富な松林によってフェアウェイは狭く、芝の管理も発展途上であり、至る所が笹に覆われていたという。そのため、特別ルールとして「オール1クラブプレース」が適用されていた。また、6番グリーンが正方形であったことや、9番ホールの池で地元の子供たちが待ち構え、池に落ちたボールを5銭(同約150円〜200円)で拾ってくれるといった長閑な光景も懐述されている。その他、「SOS」の愛称で親しまれた池越えのパー3や、11番グリーン近くの小さな滝で夏場に水泳を楽しんだことなど、当時の豊かな自然環境を示すエピソードは尽きない。
当時のクラブハウスは、現在の広島CC八本松コース1番グリーンのさらに左奥に位置していた。建物は板張りの簡素な造りで、風呂は五右衛門風呂、食堂のメニューも50銭(同約1500円〜2000円)のランチのみという質素なもので、キャディは全員男性(少年)が務めていた。ラウンドは常に1人ないし2人で回るのが通例であり、3人組は稀にあっても、4人組でプレーすることはなかったという。広島市内のゴルファーたちは、朝6時の汽車に乗り合わせるのが習慣であった。食堂車でハムエッグとトースト、レモンティーの朝食を摂るのが「お決まり」の贅沢であり、駅からコースまではタクシーに相乗りして向かった。1日遊んでも5円(同約1万5000円〜2万円)あればお釣りがあったという、古き良き時代である。このように、少人数ゆえの家族的な絆と、社交の場としての高い品格が同居していたのが、初期の八本松の姿であった。
しかし、この理想的な社交の場も、戦争の激化とともに終焉を迎える。神田は「1944(昭和19)年には暁部隊(陸軍船舶司令部)が接収していた」と証言し、また村尾時之助は当時の空気を次のように語っている。「1943(昭和18)年の秋だった。呉の海兵団の兵隊が来て、グリーンに座り込んで邪魔をするのです。演習のために原村に来ていたのが、足をのばしてゴルフ場に来て嫌味をするのです。この戦争中にゴルフとはなにごとか、というふうに…」(原文ママ)このように、1943(昭和18)年秋頃には軍の干渉によって実質的なプレーが困難となり、翌1944(昭和19)年にはゴルフを楽しむ環境は完全に失われてしまった。広島の地で育まれたゴルフの志は、ここで一旦の断絶を余儀なくされたのである。
八本松コースの閉鎖と戦後の再生~ 広島カンツリー倶楽部への継承
戦後、広島におけるゴルフの再興は、拠点を現在の「鈴が峰」へと移す形で始まった。広島GC『鈴が峰50年史』によれば、1951(昭和26)年、鈴川貫一(同年5月より中国電力初代会長)を中心とした有志により「倶楽部再興準備会」が結成され、候補地の選定に着手。紆余曲折を経て、五日市町(現・広島市佐伯区)の鈴ヶ峰山麓への建設が決定した。これ以降、同GCは広島湾を一望する景勝地の名にちなみ、「鈴が峰」の愛称で広く親しまれることとなる。1952(昭和27)年11月3日、まずは6ホールで開場を迎え、戦後における広島ゴルフの第一歩を記した。コースはその後、名手・佐藤儀一の設計・改修により18ホール化が進められた。1968(昭和43)年に完成したこのコースは、前年に他界した佐藤にとっての遺作となった。
一方、かつての八本松コースは、戦争の激化とともにその運命が暗転していた。『原村史(上巻)』(1967年)によれば、戦時中は暁部隊(陸軍船舶司令部)が駐屯。食糧増産のための農地へと転用され、フェアウェイは馬鈴薯や野菜の耕作地、あるいは豚や鶏の飼育場へと変貌を遂げた。終戦後も、ゴルフ場としての復活には長い時間を要した。跡地は1946(昭和21)年、広島大学水産畜産学部(現・生物生産学部)の附属施設「賀茂農場(畜産実習地)」として活用されることとなった。かつてのコースは学生たちが畜産実習に励む学びの場となり、1952(昭和27)年のサンフランシスコ講和条約発効後も大学への土地貸付は継続された。この時期、ゴルフコースとしての面影は完全に消失したかのように見えた。
こうした中、広島の復興を牽引する財界層が再び動き出す。広島財界主要10社(のちに11社)による親睦会「二葉会」の席上で、「広島にはまだ鈴が峰の9ホール(当時)しかない。本格的な18ホールのコースを造ろうではないか」という機運が高まり、田中好一(当時、広島GC会員)が発起人代表となり、「広島カンツリー倶楽部」が組織された。こうして、まずは1955(昭和30)年10月15日に広島CC西条コースが開場した。その後、さらなるコース建設を望む声に応える形で、かつての「八本松」の地が再び注目されることとなった。折しも、広島大学「賀茂農場」の福山市への移転が決定(1963年に完了)。これを受け、広島CCは当時の八本松町長・三好善一ら地元の指導者層の協力を得て、用地借用の交渉を開始した。このとき、倶楽部側は天野進作(広島GC八本松コース・初代キャプテン)に了解を仰いだ上で再建に踏み切っており、先人たちが築いた伝統に対する深い敬意と礼節を欠かすことはなかった。
1962(昭和37)年、地主組合代表の三好町長と広島CC代表・田中好一との間で賃貸借契約が締結。同年11月29日、かつて中村尋が最初のコースを描いたその同じ地で、新たなコースの起工式が執り行われたのである。新たに誕生した18ホールは「広島カンツリー倶楽部八本松コース」と命名され、名匠・上田治の手によって西日本屈指の名門コースへと生まれ変わった。総面積23万5千坪、全長6815ヤード、パー72というその規模は、当時としても堂々たるものであった。
現在、同コースの8番ホールと9番ホールの間には、かつて乳牛の飼料保存に活用された「サイロ」が立ち、往時の農場の面影を留めている。また、8番ホールのフェアウェイ脇に佇む「畜魂碑」は、戦時中に暁部隊(陸軍船舶司令部)によって供された動物たちの霊を弔うため、農場関係者によって建立されたものである。さらに、5番ホール茶店の裏手には、旧・八本松コースの「15番グリーン」が往時の姿のまま遺されている。
一時は芋畑や放牧地へと姿を変えながらも、かつてのグリーンの面影が今なおコースの傍らに息づいている事実は、広島ゴルフの伝統の深さを物語っている。戦後の動乱期を経て見事に復活を遂げた八本松コースは、現在、広島CCによって守り育てられている。
おわりに
南薫造が撒いたゴルフの種は、親友の天野進作や鈴川貫一らへと広がり、二葉ゴルフ倶楽部、広島ゴルフ倶楽部、そして現在の広島カンツリー倶楽部へと引き継がれ、現代に至っている。今回の調査を通じて、広島GCの創設過程や八本松コースの正確な開場日を明らかにできたことは、大きな収穫であった。歴史の断片を繋ぎ合わせ、誤った記録が定着することを防ぐ一助となれば幸いである。ただし、唯一確証を得られなかったのが「財団法人山陽ゴルフ倶楽部」の存在である。当時の新聞には財団法人化の記述が見られるものの、官報や法人一覧といった公的資料からは、その名称での登録を確認するには至らなかった。法人格の有無や登記名義の詳細については、現時点では未解明と言わざるを得ず、今後の調査課題として残ることとなった。この「歴史の空白」を埋める新たな史料が、今後発見されることを切に願いたい。
文/井手口香
註
1)日本ゴルフドム社編『全国ゴルフ場案内:日本ゴルフ年鑑 昭和12年版』1937年、p.55
2)広島ゴルフ倶楽部『鈴が峰50年史』2003年、P.18
3)井上勝純『日本ゴルフ全集4 日本ゴルフコース発達史(2)』三集出版、1994年、p.188
4)社団法人広島カンツリー倶楽部『20年のあゆみ』1975年、p.99
5)原村史編纂委員会編『原村史(上巻)』原村史刊行会、1967年、p.904
6)福本福一(pp.21-22)「八本松ゴルフリンクス」『GOLF DOM』1930年10月号
7)高橋正光『昭和4年誕生の八本松コース』2012年、pp.12-13
8)金桝晴海『広島スポーツ100年』中国新聞社、1979年、p.108
参考文献・参考URL
摂津茂和『世界ゴルフ大観-日本篇 新版日本ゴルフ60年史』ベースボール・マガジン社、1977年
井上勝純『日本ゴルフ全集4 日本ゴルフコース発達史(2)』三集出版、1994年
原村史編纂委員会編『原村史(上巻)』原村史刊行会、1967年
日本ゴルフドム社編『全国ゴルフ場案内:日本ゴルフ年鑑 昭和12年版』1937年
日本ゴルフドム社編『全国ゴルフ場案内:日本ゴルフ年鑑 昭和13年版』1938年
金桝晴海『広島スポーツ100年』中国新聞社、1979年
社団法人広島カンツリー倶楽部『20年のあゆみ』1975年
社団法人広島カンツリー倶楽部『30年のあゆみ』1986年
社団法人広島カンツリー倶楽部『50年のあゆみ』2006年
社団法人広島ゴルフ倶楽部『鈴が峰50年史』2003年
一般財団法人中国ゴルフ連盟『中国ゴルフ連盟40年史』2011年
福本福一(pp.21-22)「八本松ゴルフリンクス」『GOLF DOM』1930年10月号
高橋正光『昭和4年誕生の八本松コース』2012年
井手口香「二葉ゴルフ倶楽部と画家・南薫造」https://jga-golfpedia.jp/article/526?sort=a.published&direction=desc
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