HISTORY ゴルフ場
二葉ゴルフ倶楽部と画家・南薫造
二葉ゴルフ倶楽部(以下、二葉GC)は、現在の広島ゴルフ倶楽部の前身であり、広島県において最初に創設されたゴルフ倶楽部である。しかし、当時の詳細な記録は極めて少なく、その全容は未だ解明されていない点が多い。また、いくつかの資料には広島における「ゴルフの祖」として、洋画家の南薫造(みなみ くんぞう)の名が散見される。日本を代表する芸術家である南が、なぜ初期の広島のゴルフに関わり、どのような足跡を遺したのか。本稿では、断片的な記録を繋ぎ合わせ、現時点で判明している事実を基に広島におけるゴルフの黎明期を明らかにしていく。

南八枝子『洋画家 南薫造交友関係の研究 補遺と余話』(杉並けやき出版、2024年)表紙より「南薫造と15歳で天折した長男・陽造」
南薫造(1883-1950)とは
南薫造は1883(明治16)年、広島県賀茂郡(現・呉市安浦町)の医師の家に生まれた。広島第一中学校を経て東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科を卒業。1907(明治40)年から約3年間にわたり英国、フランス、イタリアなど欧州各地を巡り、1910(明治43)年に帰国した。帰国直後に開催された「滞欧記念絵画展覧会」で一躍脚光を浴び、文展・帝展で最高賞を重ねるなど、若くして中央画壇のスターダムを駆け上がった。1932(昭和7)年に母校の教授に就任、1944(昭和19)年には帝室技芸員(現在の「重要無形文化財保持者(人間国宝)」に相当)に任命されるなど、近代日本洋画界を代表する権威となった。
南とゴルフの本格的な関わりは、1918(大正7)年に新宿・百人町に自宅兼アトリエを構えたことから始まる。自宅からほど近い戸山ヶ原(とやまがはら)練兵場は、当時から自然発生的にゴルフを楽しむ人々が集まる場所であった。熱心な「朝の常連」だった南は、1924(大正13)年に発足した「戸山ヶ原ゴルフ倶楽部」の主要メンバーとなる。同年発行のゴルフ雑誌『GOLF DOM(ゴルフドム)』6月号には、「ある農大生」というペンネームの寄稿者により、当時の南の様子が以下のように記されている。「戸山ヶ原に大抵毎朝顔を出す人の中で、以前からその近所に住んで居る、南薫造さんという画家が居ます。この絵描きさんは、随分有名な人ですからご存知でしょう。丈がひくい人です。まだゴルフを始めて間がない様ですが、大層熱心の様です。ある日、戸山ヶ原の草の上で、しきりにマッシーでスイングをやって居られました。通りかかったおばあさんがこれを見て立ち止まり、『貴方は奇麗に草を刈るけいこをなさっているのですか』…」(註1) 南は、その後、戸山ヶ原ゴルフ倶楽部のメンバーらが中心となって創設することになる武蔵野カンツリー倶楽部の設立趣意書に名を連ねるなど、ゴルフ界の組織化にも寄与している。
南八枝子(民俗学の大家・柳田國男の孫で、南薫造の孫・健の妻にあたる)の著書『洋画家 南薫造交友関係の研究 補遺と余話』(杉並けやき出版、2024年)によると、南は中学時代から熱心に日記を記していた。しかし、1921(大正10)年後半から1927(昭和2)年までの約6年間が欠落している。そのため、この時期の正確な行動記録を特定することは困難であるが、現存する諸資料を照らし合わせると、この「空白の期間」こそが、戸山ヶ原でゴルフに開眼し、それを広島へと繋げた極めて重要な時期であったと推測される。
また、南の作品記録帳『外へ出た絵』によると、赤星家の兄弟(鉄馬、四郎、五郎、六郎)が揃って南の作品を購入していたことが判明しており、彼らが有力なパトロンであった事実がうかがえる。1929(昭和4)年4月15日の日記には、「五時半、写生かたがた駒沢にいく。十二時までに一ラウンドし、食後、先日からの約束に由り赤星四郎氏と共に八番コースの下にて向ふの段畑を写生す、赤星氏は油絵が初めてとの事なり。三時頃止む。」(註2)とある。南は駒沢の地で赤星四郎に油絵の初歩を直接指導していたのだ。後に日本を代表するコース設計家となる四郎であるが、この時、稀代の画家である南からデッサンや風景の捉え方を学んだ経験は、その後のゴルフコースにおける造形美や景観設計の思想において、少なからず影響を及ぼしたと推察される。
さらに南が主宰した自宅での絵画教室「火曜会」には、赤星鉄馬の娘・秋子(後の黒川秋子)ら知人の令嬢たちが門下生として名を連ね、1932(昭和7)年から1938(昭和13)年頃まで継続された。実は1931(昭和6)年、最愛の長男・陽造を失った南は、深い喪失感から一時筆を置くほどに消沈し、この窮状を案じた周囲による勧めや、赤星家からの熱心な絵画指導の依頼が重なり、翌1932(昭和7)年秋からの開講に至ったという経緯がある。長男を亡くして以来、ゴルフは南にとって最大の趣味となった。相模カンツリー倶楽部の創設時からのメンバーとして、同倶楽部のロゴマークを考案したほか、賞品の絵皿やハンカチーフといった景品のデザインを一手に引き受けるなど、その貢献は多岐にわたる。また、南の日記には相模のみならず、駒沢や軽井沢といった各地のコースを毎週のように巡り、白球を追う姿が克明に綴られている。広島県呉市の「安浦歴史民俗資料館(南薫造記念館)」には、南の小柄な体格に合わせたシャフトの短いゴルフクラブが多数遺されており、当時南が注いだ情熱を今に伝えている。

南八枝子『洋画家 南薫造交友関係の研究 補遺と余話』(杉並けやき出版、2024年)より、大正7年に建てられた南薫造の自宅とアトリエ(新宿・百人町)
広島への伝播、二葉ゴルフ倶楽部の誕生
二葉GCの創設に関する公的記録は極めて限定的である。「JGA Golf Journal 2001 MARCH vol.65『特集ゴルフ場の100年』」では、「1923(大正12)年6月に二葉GC(現・広島GC)が設立」(註3)と明記されているが、摂津茂和『世界ゴルフ大観-日本篇 新版日本ゴルフ60年史』(1977年)では、「大正12年(1923)に、広島市に二葉ゴルフ倶楽部が組織され、同年6月に広島市大須賀町東練兵場内に、2,525ヤード、パー33の9ホールがつくられたが、資料がないため詳細不明である」(註4)との言及に留まっている。地元の記録である『広島スポーツ100年』(1979年)には、広島カンツリー倶楽部の津田太郎氏(当時67歳)の談話として、「パーは覚えていないが、9ホールで、射的場の東側に1番のティーグラウンドがあった。(中略)会員制でメンバーは30~50人いたと思う」(註5)との回想が記されている。このように長らく「詳細不明」とされてきた同倶楽部であるが、『全国ゴルフ場案内:日本ゴルフ年鑑 昭和12年版』には、以下の通りに記録されている。
【二葉ゴルフ倶楽部 概要(昭和12年当時)】
• 開場日:大正12年(1923年)6月
• コース所在地:広島市大須賀町 東練兵場内
• 事務所:広島市小町 広島電気株式会社内(現・中国電力)
• 規模:9ホール、2,525ヤード、パー33
• 役職員:支配人・鈴川貫一 / プロ・中村尋
• 利用料:ビジター1円、キャディ10銭、レッスン1円(いずれも9ホール)
次に、南薫造が広島における「ゴルフの祖」であるという説を裏付ける資料は、主に以下の二点に集約される。
⑴ 福本福一による記述
「八本松ゴルフリンクス」(『GOLF DOM』1930年10月号)において、「そもそも広島のゴルフは、大正14年2月に画伯・南薫造氏が広島に滞在した際、ゴルフを親友間に普及したのが始まり」と明記。また南の滞在目的は、「明治大帝記念壁画」の謹製であったと記されている。
⑵ 下村海南(しもむら かいなん、本名・下村宏)による記述
「ゴルフは安い 廣島の練兵場と倉敷の川敷」(『GOLF』1931年12月号)では、南が帰郷の折、釣りに興じていた親友の医師・天野進作に対し、「同じオープンエア(屋外)の下で楽しむにしても、魚を待つ必要のないゴルフというものがある」と説いたエピソードが紹介されている。
ところで、福本が記した「大正14年2月、明治大帝記念壁画の製作のために南が帰郷した」という記述の真実性を検証するため、広島県呉市の「安浦歴史民俗資料館(南薫造記念館)」へ照会したところ、「明治大帝記念壁画」とされる壁画は、現在「聖徳記念絵画館」が所蔵する『広島大本営軍務親裁』ではないかと推察される、ということであった。さらに、同作の制作は長期にわたり、完成・搬入は1928(昭和3)年7月であった。
また、1925(大正14)年に南が帰郷した記録は把握していないが、翌1926(大正15)年2月に帰郷し、軍艦「古鷹」に掲げる古鷹山(ふるたかやま)の作品制作のため、江田島(現・広島県江田島市)に滞在した事実はある、ということだった。あいにく、この期間は南の日記が欠落している時期と重なるため、起源の解明については、現存する諸資料の照合に委ねるほかない。
しかしながら、ゴルフが展開された「場」の共通性は注目すべき点である。軍事施設をゴルフ場へと転用する着想は、南自身が東京の戸山ヶ原練兵場で日常的にプレーしていた実体験が背景にあったことは想像に難くない。この着想が、広島第一中学校の同窓生である天野進作や鈴川貫一(後の中国電力初代会長)ら地元名士の賛同を得るに至り、1923(大正12)年6月、中国地方におけるゴルフ場の先駆けとなる二葉GCの創設という具体的な形となって現れたものと考えられる。
広島・東練兵場でのゴルフ
ここで、当時の東練兵場において、具体的にどのような形態でゴルフが行われていたかを物語る二つの貴重な資料を提示したい。一つは、先述した下村海南による記録である。下村は終戦時の情報局総裁(鈴木貫太郎内閣)として歴史に名を刻む人物であるが、同時に熱心なゴルファーでもあった。彼は歌人としての繊細な観察眼を併せ持ち、各地のゴルフ場の実態を独自の筆致で記録している。彼が遺した東練兵場の描写は、当時の空気感を今に伝える貴重な「史料」であり、広島ゴルフ史の空白を埋める一次資料として極めて重要である。そしてもう一つは、広島に拠点を置いた帝人株式会社の社報『帝人タイムス』に掲載された同社社史編纂室・福島克之による回想録である。以下、原文を尊重しつつ一部を現代語に改め、『帝人タイムス』についてはその要旨を抜粋して紹介する。
⑴ 下村海南「ゴルフは安い 廣島の練兵場と倉敷の川敷」(『GOLF』1931年12月号より)
二葉クラブは広島市内の東練兵場をその活動の場に充てている。そもそもは、洋画家の南薫造画伯が広島へ帰郷した際、釣りに凝っていた友人の名医・天野進作氏に対し、「釣りというものは魚が寄ってくるまで待っていなくてはならぬ。だが、同じオープンエア(屋外)の下で楽しむにしても、そうした待ちの世話がいらぬゴルフというものがあるぞ」と口火を切ったのが始まりだという。こうして彼らは、練兵場の草原でただポカポカと球を叩き飛ばすことになったのである。
広島には東西両練兵場があるが、この東練兵場は騎兵用であり、時折は飛行機も発着し、その一角には小学校まで控えている。さらには往来の道が縦横に交差しているというありさまだ。軍の練兵やら児童の遊戯やら、あるいは通行人のしげき隙間を縫うようにして、いまだ老練ならざるビギナー連中が内外の教本を片手に首っ引きで、球をかっ飛ばしていたのだから、そのトラブルさ加減は想像以上であったらしい。
正式な使用許可が下りたのは大正15年の夏、師団司令部付の菊池少尉が、上島主計正(しゅけいせい、経理担当の将校)や池田副官らと列席の上で認められたとのことである。しかし、何分にも騎兵の練兵場であるから、ホールを作るにしても「直径2インチなにがしを超えてはならぬ」との条件がついた。正規の大きさでは、馬の蹄がホールに食い込む恐れがあるという理屈である。
グリーンとは名ばかりでひどく狭く、芝の植え付けもろくには出来ぬ上に、ホールがあまりに小さすぎる。そこで、規定サイズの容器をわざわざ携帯し、プレーの折にだけはめ込んでおく。用が済めば取り外してあとは土で埋めておく・・・などという時代もあれば、いちいち取り外すのは手間だというので、蓋付きの容器をはめ殺しにしておき、プレーのたびに蓋を外すことにした。ところが、プレーを終えて蓋をし、鍵までかけておくのだが、いたずら盛りの子供たちはその蓋を壊して持って行ってしまう。これには、何ともやり切れなかったという。成るほど、それはやり切れなかったに相違ない。こうした苦労は、江戸や難波あたりでアリソンのプランに基づき、コースに何千円もの金を投じているのとは、だいぶ桁が違う話である。
二葉クラブの注意書きには、練兵や通行人への心得が7項目にわたり列挙されている。その第5項にはこうある。 「東練兵場は一般公衆の道路を擁し、春秋の好季節には人出も多く、また至る所に子供らが遊戯している。万一、誤ってこれらの人々にボールが当たり、障害を及ぼした場合は由々しき重大問題となるのみならず、東練兵場の使用を禁止されることとなり、本倶楽部の死活問題を惹起(じゃっき)することもある。会員諸君はゴルフの礼儀作法を厳守すると共に、周囲の状況を顧慮し、特に深甚(しんじん)なる注意をなすこと」
「二葉リンクス」の名は、それがゴルフの「二葉(芽生え)」でもあり、また二葉山の麓にあるからでもある。コースはパー3が4つ、あとはパー4の計9ホール、2,585ヤード(註6)となっている。いかさま、右のような次第であるから「とてもお話にならぬ」と言えばそれまでだが、第一、広島市内にある東照宮鳥居前の茶店がクラブハウス兼用というのだ。クラブの入会金20円(2026年の価値に換算すると、約6万円〜8万円前後)、会費は月1円50銭(同約4,500円)、キャディーフィーは20銭(同約600円)というのだから、安さにおいて断然引けをとらない。これならば、バーへ行かぬ連中であっても「高い」とは義理にも言えまい。
とは言うものの、球がかなり飛ぶようになると、練兵場では物足りない。通行人に万一というより、千に一でも当たる危険性がある。そこでこの二葉リンクスは、今や主にビギナー連中の練習用コースとなり、広島より西の方へ約1時間ほどの八本松沢の南方に、理想的な12万坪の新コースを作り上げた。それは加州(カリフォルニア)にて佐藤選手(佐藤儀一)と共に名を馳せていた中村尋君が帰国し、その手によってプランが成ったものという。

東練兵場が記された広島の旧地図
⑵ 福島克之「社史随想(18)」『帝人タイムス』(1973年)より
広島において「ゴルフ」というものを始めた先駆者たちは、辛口で知られた大屋晋三に言わせれば、広島の「田紳(地方の紳士)」を代表する面々であった。すなわち、鈴川貫一、鈴川巌、天野義一、伊藤美代二、阪本柳太、秦逸三といった錚々たる顔ぶれである。ちょうどその頃、アメリカから中村尋というゴルファーが帰国し、これら地方紳士たちのコーチ役を務めるようになった。彼は指導にあたると同時に、クラブやボールといった用具の販売も手がけていた。
さて、道具一式を揃えた紳士たちであったが、次に必要となったのが専用のグラウンドである。学校の校庭程度では到底間に合わず、どうしても広大な練兵場を借りる必要に迫られた。しかし、時は軍国主義の勢いが盛んな時代である。ゴルフなどという「ハイカラな遊び」を願い出れば、師団長から「非国民」と一喝され兼ねないと、戦々恐々とした面持ちで許可を求めたという。
ところが、当時の師団長はかつて駐英大使館付武官としてロンドンに駐在した経験があった。自身がプレーすることはなかったが、ゴルフが英国において立派な紳士のスポーツであることを深く理解していたのである。師団長は「東練兵場の使用を許可する。ただし、演習の支障にならぬよう留意せよ」との異例の沙汰を下した。
こうして先達たちが発起人となり、「二葉ゴルフ倶楽部」が組織され、練習が開始されたのである。しかし、初心者が誰もがそうであるように、彼らもまた一刻も早く「コース」を回りたいという衝動を抑えきれなかった。そこで、わずかばかり土を盛り上げてティーイングエリアとし、距離を測っては雑草を刈り取り、地面に穴を掘ってそこを「グリーン」と称するなど、手作りでホールを設営していったのである。しかし、ピンの旗だけは兵士たちに遠慮して立てることはなかった。一説によれば、せっかく丹精込めて手入れしたグリーンを一瞬で台無しにされてしまうのを防ぐため、あえて隠蔽(いんぺい)する目的で立てなかったのだともいう。まあ、どちらにせよ大した違いではない。
その代わり、コースは広大である。壁も障子もない。どこへ、どちらの方向へスカッと飛ばしてもOBというものがないのだ。スライスもフックも歓迎、極端な話、後方に飛ばしてしまっても一向に差し支えない。ビギナーにとっては、これ以上なく便利なコースである。まさに「自由自在」とはこのことだ。ところが、「軍の演習の邪魔をしない」という許可条件が、実は容易ならぬものであることが次第にわかってきた。堂々とコースを進んでいると、はるか彼方から騎兵の一隊が砂塵を巻き上げて突進してくる。「それ来たぞ!」というわけで、慌ててボールを拾い、邪魔にならない場所へと退避する。兵たちが過ぎ去ってしまえば、また何事もなかったかのようにプレーを再開する。これくらいの条件なら、まだ我慢もできた。ところが、どうしても辛抱できないような出来事が起こり始めたのである。
ようやくグリーンに乗せて、いよいよパッティングという段になると、不意に野砲部隊が方向を転じ、こちらへ戻ってくることがあった。わざとではなかろうが、あろうことか彼らはグリーンを目がけて突き進んでくるのである。「それ、来たぞ!」と叫びながら慌ててボールを拾い上げて退避すると、ごうごうと轟音を響かせて砲車隊が通過していく。ようやく静まり、「さあ、もう大丈夫だ」とグリーンへ戻ったときには、万事休す。そこには深い轍(わだち)の跡と無数の馬蹄の跡が刻まれているのだ。それだけならまだしも、あちこちに馬糞が転がっており、とてもパッティングどころではない。プレイヤーたちはただ互いに顔を見合わせ、苦笑いするほかなかった。
この馬糞には、いつも悩まされ通しであった。素晴らしいティーショットを放ち、悠々と歩いて行ってみても、真っ直ぐ飛んだはずのボールがどうしても見つからない。探しあぐねた末、ふと草むらの馬糞に目をやると、あろうことかボールがそこへ見事に命中し、埋没しているのである。まさに泣くに泣けない状況だ。しかし、当時はボールも貴重品であったため、捨てるわけにはいかない。指先でつまみ上げ、近くの小川で洗い清めてはまた使う、といった具合であった。「これではとてもゴルフとは呼べない。ゴルフはゴルフでも、せいぜい『馬糞(うまくそ)ゴルフ』だ」という不満の声が、次第に高まっていった。そこで先達たちは、「同じやるなら本格のコースでやらにゃ詰まらんのう」ということになり、いよいよ八本松の地に本格的なゴルフコースを建設しようという運びになったのである。
福島によれば、「1930(昭和5)年頃、シングルの髙畑誠一氏が、広島にこられたのを機会に、八本松のコースのコンストラクション(コースの設計・監修)に関しアドバイスをしてもらうことになった」と記されており、福島本人も高畑ら一行に随行し、まだ造成中であった八本松コースを共に歩いたという。その際、髙畑は練兵場のコースは論外だが、この八本松は立派なものになると太鼓判を押し、数々の有益な助言を残して帰阪した。なお、福島はこのとき髙畑に対してクラブの調達を依頼しており、後日、約束通りドライバーとマッシー(現代の5番アイアン相当)が送られてきたと回想している。その後、本格的なゴルフへの意欲が高まった福島は、中村尋の店でセット一式を購入。やがて八本松コースが完成を迎えると、二葉ゴルフ倶楽部は発展的に解消され、新たに「広島ゴルフ倶楽部」が結成された。福島も自ら百円の入会金を納め、その創設メンバーの一員となったのである。
二葉から八本松へ ― 広島ゴルフの志を継ぐ地
こうして広島のゴルフは、東練兵場で発足した二葉ゴルフ倶楽部から、広島ゴルフ倶楽部八本松コースへと継承されていく。ここでいう「八本松コース」とは、現在は「鈴が峰コース」(広島市佐伯区)を運営する広島ゴルフ倶楽部が、最初に造成したコースを指す。同コースは戦争の激化により閉鎖を余儀なくされ、一度は消滅の途を辿った。
しかし戦後、この歴史ある跡地を舞台に新たな歩みが始まる。1963(昭和38)年、設計家・上田治の手により、広島カンツリー倶楽部にとって西条コースに次ぐ二番目のコースとして、現在の「八本松コース」が誕生したのである。
特筆すべきは、現在の八本松コース5番ホールにある茶店の裏手に、旧・八本松コースの15番グリーンが往時の姿のまま遺されている点である。小さな砲台状のグリーンは、かつて両サイドにバンカーを配していた設計思想を今に伝えている。広島カンツリー倶楽部はこの場所に「旧NO.15ホールグリーン」の看板を掲げ、歴史の遺構として大切に保存している。また、同倶楽部会員の高橋正光氏によれば、鈴川貫一の孫である輝久氏(広島大学同窓)の宅には、南薫造が描いた『八本松コース』の絵画が秘蔵されているという。貫一は戦時中、この絵を防空壕の中にまで持ち込み、大切に飾っていたと伝えられる。描かれているのは旧・八本松コースの2番ホール(池越えのパー3)と推測され、現在はその複製がクラブハウス内に掲げられている。
現在の倶楽部組織は戦前とは異なるが、その地には、二葉ゴルフ倶楽部から続く「広島ゴルフの志」が、形を変えながらも脈々と受け継がれているのである。
さて、話を戦前の八本松に戻そう。南薫造と広島ゴルフとの深い関わりを示す象徴的な事実は、この「旧・八本松コース」の幕開けにおいても確認することができる。当時、新設されたばかりの八本松コースの開場式において、模範演技(エキシビション)を披露した二人の名手のうち一人は、川崎保であった。川崎は、かつて戸山ヶ原で南と共に白球を追ったゴルフ仲間であり、武蔵野カンツリー倶楽部平山コースの用地選定に奔走した人物でもある。南が東京で見出したゴルフの種が、かつての同志である川崎の手によって、広島の地で花開いた瞬間であったと言えよう。川崎は武蔵野カンツリー倶楽部創設後、福岡へと拠点を移したが、南や川崎らを通じたゴルフの縁は途切れることはなかった。それはやがて、広島と福岡の地に根を下ろしたゴルファーたちによる「対抗戦」という、新たな交流の形へ発展し、次代へと引き継がれていくこととなった。
文/井手口香
註
1) ある農大生「戸山ヶ原のゴルフ」『GOLF DOM6月号』1924年、p.9
2) 南八枝子『洋画家 南薫造交友関係の研究 補遺と余話』杉並けやき出版、2024年、p.110
3) JGA Golf Journal 2001 MARCH vol.65「特集ゴルフ場の100年」https://www.jga.or.jp/jga/html/about_jga/vol65/1p.html
4) 摂津茂和『世界ゴルフ大観-日本篇 新版日本ゴルフ60年史』ベースボール・マガジン社、1977年、p.109
5) 金桝晴海『広島スポーツ100年』中国新聞社、1979年、p.106
6) 数値は出典資料の記載をそのまま引用した。当時の資料(『全国ゴルフ場案内:日本ゴルフ年鑑 昭和12年版』等)により数値に若干の差異が認められるが、歴史的記録としての連続性を考慮し、各原文のままとしている。
参考文献
南八枝子『洋画家 南薫造交友関係の研究』杉並けやき出版、2011年
南八枝子『洋画家 南薫造交友関係の研究 補遺と余話』杉並けやき出版、2024年
日本ゴルフドム社編『全国ゴルフ場案内:日本ゴルフ年鑑 昭和12年版』1937年
福本福一「八本松ゴルフリンクス」(pp.21-22)『GOLFDOM』1930年10月号
下村海南「ゴルフは安い 廣島の練兵場と倉敷の川敷」(pp12-13)『GOLF』1931年12月号
金桝晴海『広島スポーツ100年』中国新聞社、1979年
社団法人広島ゴルフ倶楽部『鈴が峰50年史』2003年
福島克之「社史随想(18)」(pp.502-504)『帝人タイムス43(6)』帝人社、1973年
高橋正光『昭和4年誕生の八本松コース』2012年
広島市 編『広島新史 資料編 3 (地図編)』広島市、1984年
INDEX

