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戸田藤一郎が米国で2位の快挙

 1935(昭和10)年の4月から8月にわたって行われた日本人プロゴルファーの第二次米国遠征からわずか4カ月後、陳清水と戸田藤一郎は再び米国に渡ることになった。ウインターサーキット(ウインタートーナメントという表記もあり)と呼ばれる一連のトーナメントに出場するためである。
 当時のゴルフ雑誌『GOLF』にウインターサーキットの日程が掲載されている。それによると1935年12月27日のパサディナオープンからスタートし、翌年4月のマスターズまで17試合が組まれている。
 再渡米を勧めたのは、これまで2度の米国遠征を主導してきたUSPGAトーナメントマネジャーのロバート(通称ボブ)・ハーローである。日本側は第二次遠征を終えて間もないことから見送る方向でまとまりかけていたが、当時のJGA理事で後にJGA会長になる石井光次郎らが熱心に働きかけて実現に至ったようだ。

 

米国に向かう宇洋丸の船上で撮影したもの。
前列右から2人目が陳清水、後列右端が戸田藤一郎
(日本プロゴルフ協会30年史より)

 

1935(昭和11)年、渡米したのは
25歳の陳清水と21歳の戸田藤一郎

 当時、陳が25歳で戸田は21歳。台湾出身の陳は若くして来日し、この時点で関東プロゴルフ選手権に2勝していた。戸田はこの年の日本プロゴルフ選手権覇者。経験豊富な宮本留吉らではなく若い2人が選ばれたのは国内プロゴルファーの底上げを狙ってのものだった。
 12月10日に横浜港を出た2人は12月25日にロサンゼルスに到着。その2日後にはパサディナオープンに出場している。初戦はさすがに長旅の疲れがあったのだろう。2人とも前半の36ホールで姿を消している。
 年が明けて1936(昭和11)年、2戦目のロサンゼルスオープンから2人は徐々に力を発揮し始める。この大会では陳が17位、戸田が30位に入り、続くサクラメントオープンでは戸田が13位となった。
 1試合置いて1月30日開幕のサンタカタリナ島オープンで戸田が見せ場をつくる。パー66のコースで第1ラウンドを62にまとめて首位から2打差の3位につける。第2ラウンドは67で15位に後退するが、36ホールの最終日は66、63で通算6アンダーパー、258で終了。5位に入った。
 ここまで西海岸で開催されていたウインターサーキットは東へと進んでいく。ジョージア州開催のトーマスヴィルオープンでは戸田9位、陳14位とまずまずの成績を残した。

 

ヘーゲン、ネルソンも出場した試合で
2位となった戸田藤一郎

 そして3月3日開幕のハリウッドオープンに臨んだ。ハリウッドというとロサンゼルスにある映画の街を思い浮かべるが、こちらのハリウッドはフロリダ州である。
 会場のハリウッドカントリークラブは6350ヤード、パー70の設定。戸田は第1ラウンドこそ73と苦戦して42位と出遅れたが、第2ラウンドは復調して68をマーク。20位に浮上した。36ホールの最終日も68、68と好スコアを続け、通算3アンダーパーの277でホールアウトした。勝ったヴィック・ゲッジとの差はわずかに1打。トニー・ペナと並ぶ2位に食い込んだ。上位にはハリー・クーパーやジョン・レボルタら米国の一流選手がひしめいていた。優勝争いには絡んでいないがメジャー11勝のウォルター・ヘーゲンや若き日のバイロン・ネルソンも出場している。その中で日本からやってきた21歳の若者が優勝まであと一歩に迫ったのである。
 戸田はこのトーナメントで325ドルの賞金を獲得した。

 

文/宮井善一

 

参考文献
『日本ゴルフ協会七十年史』
『日本プロゴルフ協会30年史』
『GOLF』(目黒書店)1936年1~4月号
『THE NEW YORK TIMES』1936年1月31日~2月2日付、3月4~6日付
 

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