HISTORY プロゴルファー
日本人プロの第二次米国遠征
1931(昭和6)年から1932(昭和7)年にかけて行われた日本人プロ初の米国本土遠征の際、遠征実現の立役者であるUSPGAトーナメントマネジャー、ロバート(通称ボブ)・ハーローはすでに次の企画を考えていた。日米対抗である。
1934(昭和9)年11月、ベーブ・ルースら米メジャーリーグ選抜が来日して各地で試合を行っている。この時、同行していたバットメーカーの社長、ヒル・リッチがUSPGAからJGAへの親書を携えていた。内容はハーローが企画した日米対抗への招待だった。JGAはUSPGAと費用の負担など内容を詰め、12月に正式に発表された。
年が明けて1935(昭和10)年1月中旬、代表メンバー6人が決まった。前回の米国遠征メンバーである宮本留吉、安田幸吉、浅見緑蔵の3人に陳清水、中村兼吉、戸田藤一郎を加えた計6人である。また、JGA書記(後の事務局長職)で程ヶ谷カントリー倶楽部支配人でもある加沼豊が団長として同行することになった。
間に合わなかったマスターズの招待
出発は4月9日である。それまで代表選手は合宿などで準備を整えていた。
そんな時、2月末に米国のマスターズトーナメントから手紙が届いた。マスターズトーナメントはボビー・ジョーンズらが前年に創設した招待試合。手紙はこの年の第2回大会に宮本留吉、浅見緑蔵、中村兼吉の3人を招待したいというものだった。
マスターズの開幕は4月4日。渡米の予定を簡単に変更できる時代ではなかったこともあり、丁重に断るしかなかった。
一行は当初の予定通り、4月9日に横浜港から日枝丸で旅立った。21日にワシントン州のシアトルに到着。カナダ・バンクーバーでの現地プロとのマッチを経て28日にシアトルで日米対抗第1戦が開催された。午前中はシングルス、午後はダブルスという試合形式で日本チームは7.5ポイント対4.5ポイントで初戦を飾った。
この後は各地を移動しながら日米対抗をこなし、5月22日にはアトランタでボビー・ジョーンズ擁するチームと対戦する。ジョーンズ組と対したのは陳、戸田組で結果は引き分け。トータルでも米チームと引き分けている。

ニューヨークのエンパイアステートビル展望台で1935(昭和10年)7月1日に撮影したもの。右から安田幸吉、宮本留吉、戸田藤一郎、浅見緑蔵、加沼豊団長、ボブ・ハーローUSPGAトーナメントマネジャー、中村兼吉、陳清水(日本プロゴルフ協会30年史より)
日本人選手として初めて
メジャー第3ラウンドに進んだ中村兼吉
5月末には東海岸のペンシルベニア州フィラデルフィアに到着し、当地で初めてトーナメント(フィラデルフィアオープン)に参戦。その後、6月6日から同州のオークモントカントリークラブで開催される全米オープンに挑んだ。
オークモントCCは米国でも屈指の難コースである。日本勢も大苦戦し、第1ラウンドで最も良かった宮本と中村でスコアは82、順位は89位だった。
雨の第2ラウンドで中村が79と奮闘する。通算17オーバーパーの161はギリギリながら後半への出場権をつかめるものだった。他の5人はまたも80を切ることができず、ここで姿を消すことになった。中村はメジャーの舞台において日本選手で初めて第3ラウンド以降に進んだ選手となった。
36ホールの最終日、中村は第3ラウンドで78をマークするが最終ラウンドは86と崩れてしまう。通算37オーバーパーの325は58位という成績だった。
一行は再び各地で日米対抗やトーナメント出場をこなしながら西海岸に戻り、8月1日にサンフランシスコから浅間丸で帰国の途に就いた。『日本ゴルフ協会七十年史』によると日米対抗は計42戦開催され、日本チームは25勝4分け13敗と大きく勝ち越している。ただし、場所によって対戦相手のレベルには開きがあったようで、トッププロ中心のチームには大敗を喫するなど苦戦している。
帰国翌日、一行は東京都内で東京朝日新聞社主催の座談会に臨んだ。その模様が8月29日付紙面に掲載されている。記事によると宮本、安田は国内の試合が少ないことを訴え、浅見は練習が足りないと述べている。日米対抗の好成績を喜ぶよりも彼我の差を痛感した様子が伝わって来た。
文/宮井善一
参考文献
『日本ゴルフ協会七十年史』
『日本プロゴルフ協会30年史』
『ゴルフドム』1935年1~9月号
『ゴルフ一筋 宮本留吉回顧録』宮本留吉著(ベースボール・マガジン社)
『ゴルフに生きる 人生八十年“ただ一筋”』安田幸吉著
『東京朝日新聞』1935年8月29日付
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