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成宮 喜兵衛

関西初の日本アマ優勝者

           

成宮 喜兵衛
Kihei Narumiya
1903(明治36)-1971(昭和46)

 京都カントリー倶楽部(山科。現存せず)で修業を積んだ後、茨木カンツリー倶楽部の会員となり、クラブ選手権に4回(1933、1939~1941)優勝している。晩年の所属は京都ゴルフ倶楽部であった
 関西は日本のゴルフ発祥の地であるが、当時は赤星四郎、六郎の兄弟や川崎肇ら、東京のゴルファーたちがアマチュアゴルフ界を席巻していた。
 茨木カンツリー倶楽部所属の成宮が1932(昭和7)年の日本アマチュア選手権に関西のゴルファーとして初めて優勝した時は、関西7倶楽部(神戸、鳴尾、舞子、甲南、茨木、京都・山科、宝塚)が総出で祝勝会を開いたという。
 京都・姥柳町の老舗呉服問屋「成宮商店」の跡取り息子である成宮は、少年期から祇園や先斗町に出入りしていた。始めたことは究めないと気がすまない性格であり、小唄、謡曲など、芸事は万事が達人の域にあったという。

 

芸事は万事が達人の域

 ゴルフを始めたのは昭和の初め、成宮が20代の頃である。
「東京・大阪間に空の定期便が開かれたのは昭和4年のことだが、成宮は毎週末になると“空の人”になった。東京ゴルフ倶楽部に行き、赤星四郎、六郎兄弟からコーチを受けるためだった。当時、鉄道によると、大阪・東京間の所要時間は11時間だったが、飛行機だと地上輸送をふくめて4 時間。料金は片道30円だったという。一往復しただけで、並の“月給取り”の一月分の給料が、それこそ飛んでしまうほどだった。それを毎週末、定期便で飛んでいたのだから、おまけになんら生産性のないゴルフのためのフライトだったから、身上を削る一方だった」と、ゴルフジャーナリストの杉山通敬は「ゴルフ花伝書」(ゴルフダイジェスト社)のなかで成宮喜兵衛のゴルフへの偏愛ぶりを語っている。
 1942年の日本アマチュアゴルフ選手権競技で10年ぶりの優勝を果たしたのちは、成宮杯関西学生ゴルフ選手権の開催、関西オープン、関西プロの復活に尽力するなど、戦後の関西ゴルフ界の復興に貢献。1951年に結成された関西学生ゴルフ連盟の初代会長も務めている。
 晩年は財産を使い果たし、ゴルフのプレーがままならぬ体となったが、近隣に家があった京都GC(上賀茂)のクラブハウスには、亡くなる直前まで、毎日のように姿を見せていたという。ゴルフに捧げた69年の生涯であった。

 

文/近藤雅美

 

参考文献:

「日本ゴルフ協会七十年誌」
「ゴルフ花伝書」杉山通敬著、ゴルフダイジェスト社

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