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三井 栄子
日本の女性競技ゴルファーの先駆け
三井栄子
Sakiko Mitsui
1895(明治28)-1977(昭和52)
1895(明治28)年に、旧岸和田藩主の岡部家に生まれた三井栄子(みつい・さきこ)は、1915(大正4)年、本村町三井家二代目の三井弁蔵と結婚。
1922(大正11)年、夫の三井弁蔵の赴任先のニューヨークでゴルフを覚え、帰国後の翌1923年には、東京ゴルフ俱楽部と前年開場したばかりの程ヶ谷カントリー俱楽部の会員となる。
三井は東京ゴルフ俱楽部に入会すると、鳩山千代子、赤星文子、末弘冬子らが在籍する倶楽部の女性会員の組織づくりや、第1回女子選手権の開催に尽力し、第1回の関東関西婦人ゴルフ俱楽部の対抗マッチ開催に奔走する。
その関東関西対抗戦において三井は、1926(大正15)年から1937(昭和12)年に至るまでの12年間、常に最高の実力者といわれ、女子ゴルフの先駆者として大活躍している。
当時の日本のゴルフ界には女子のプロゴルファーは存在せず、女子のための競技も開かれていなかった。この関東関西対抗戦が唯一、女性の実力を問う場であった。
ウォルター・ヘーゲンも驚いた
三井栄子の実力
東京ゴルフ倶楽部(駒沢)で行われたその関東関西対抗戦の第1回大会(1926年5月21日)において、三井は関西を代表する女性ゴルファーとして知られた西村まさ(日本人初の神戸ゴルフ倶楽部、レディースチャンピオン。夫は『日本のゴルフ史』の著者・西村貫一)と対戦し、その実力のほどを示している。
三井栄子 5 8 5 6 4 5 6 7 3 =49 4 3 5 4 5 5 4 4 5=39 (88)
西村まさ 7 7 5 7 4 5 5 7 3 = 50 4 4 3 3 5 5 4 4 6=38(88)
関東関西対抗戦はマッチプレー競技。このとき両者はシングルスで対戦し、結果はオールスクエアの引き分け。
各ホールのストロークは上記のとおりで、ストロークプレーとしても88のタイスコアだが、後半の30台は、当時の男性のトッププレーヤーに匹敵するものである。
また、1930(昭和5)年に日本ゴルフ協会の要請で来日したウォルター・ヘーゲンとのエキシビションマッチ(東京ゴルフ倶楽部駒沢コース)のスコアも三井の実力を証明するものであった。ヘーゲン、赤星四郎、六郎兄弟と9ホールをプレーした三井のスコアは36。これに驚いたヘーゲンは『信じ難いこと』と痛く感動し、愛用のウェッジを三井にプレゼントしている。
戦後はJGA女子委員会を率い
女子ゴルフの発展に貢献
戦前の女性ゴルファー草創期を牽引した三井は、戦後、全日本規模の選手権競技が開かれるのを夢見て、当時のJGAの首脳であった石井光次郎、野村駿吉,小寺酉二らに、女性がJGAの組織に加わることや女性競技会の開催を熱心に働きかけた。
その願いに動かされて1960年に誕生したのがJGAの女子委員会である。三井は自ら初代の委員長となり、女性ゴルファーの育成、女子ゴルフ界の発展に大きく貢献している。
参考文献:
「日本ゴルフ協会七十年史」
「日本のゴルフ史」1930年初版、文友堂
「東京ゴルフ倶楽部75年史」
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