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PERSON プロゴルファー

宮本 留吉

ボビー・ジョーンズが認めた男

 

宮本留吉
Tomekichi Miyamoto
1902(明治35)~1985(昭和60)

 宮本留吉は、1902(明治35)年9月25日、六甲山麓の篠原村に生まれた。生家は理髪業と雑貨屋を営んでいたが、後に、六甲山の八合目付近に登山客のための休憩所を開業している。兄弟姉妹が多く貧しかったため、13歳の頃から、神戸ゴルフ倶楽部で週末、キャディとして働きだす。生来器用であった宮本は、見様見まねでゴルフを覚え、17、18歳の頃にはすでに80を切る腕前であったという。
 一時期ゴルフから離れ、様々な職業を転々とした宮本であったが、六甲の別荘地を斡旋する仕事をしていた一家の知人、下村博太郎の紹介で、六甲山上の廣岡久右衛門(神戸ゴルフ倶楽部会員で茨木カンツリー倶楽部発起人の一人)の山荘の門番兼専属キャディとなり、再びゴルフと接するようになる。
 広岡のキャディとして働く宮本のゴルフに対する真摯な取り組みとその資質に着目したのは、当時、創立された茨木カンツリー倶楽部であった。広岡久右衛門は、この要請を受け、宮本をすでに舞子で日本初のプロとなっていた先達、福井覚治にあずけ、ゴルフのプレーだけでなくクラブの修繕などを学ばせた。
 1925年、茨木カンツリー倶楽部が開場、宮本は正式に茨木のキャディマスター兼プロとなる。福井覚治、越道政吉に次いで日本で三番目のプロの誕生であった。 

 

当時の第一人者・赤星六郎に
グリップから学ぶ

 1926年7月、茨木カンツリー倶楽部で開催された、日本最古のプロトーナメント・日本プロの第1回大会(当時は『全日本ゴルフ・プロフェッショナル36ホール・メダルプレー争覇戦』)で宮本は優勝。宮本のゴルフの技術のさらなる向上を願った茨木カンツリー倶楽部は1927年、第1回日本オープンの優勝者であり、誰もが認める当時のゴルフ界の第一人者であった赤星六郎のもとに宮本を留学させることを決定する。
 宮本は前年、茨木を訪れた赤星から、グリップをインターロッキングに替えるなどの指導を、すでに受けていた。この時、赤星が茨木の理事に「東京に暫く寄越してみたらどうだ」と言ったのが留学のきっかけであった。
 宮本が赤星六郎の所属する東京ゴルフ倶楽部(当時・駒澤)に滞在したのはわずか1カ月半余りであったがプレーだけでなくゴルファー、プロとしてのマナーなど学ぶことは多く、宮本は赤星の恩義を後々まで忘れることはなかったという。また、生涯のライバルであり友となる安田幸吉と親しくなったのもこの時であった。

 

“第1回日本プロ”に参加した6人のプロ。右から越道政吉、安田幸吉、福井覚治、村上伝二、関一雄、宮本留吉

 

日本人プロ初の海外遠征で
ボビー・ジョーンズに勝つ 

 1929年には安田幸吉(東京ゴルフ倶楽部)とともに日本人プロ初の海外遠征としてハワイアンオープン(11月15日―17日。ワイアラエCC)に参戦する。
 1931年11月浅見緑蔵(程ヶ谷カンツリー倶楽部)、安田幸吉と渡米、アマチュアの佐藤儀一(当時サンフランシスコ在住)とともに、カリフォルニア州沿岸およびメキシコ地方におけるウインタートーナメントに参加した後、一人でテキサスおよびフロリダ地方のトーナメントに出場した後ニューヨークヘ出て、カナダオープンに参加した。
 同年の3月23日にはパインハーストNo.2コースで行われたエキシビションマッチに参加。ダブルスのベストボールで、ボビー・ジョーンズと前年の全米オープン覇者ビリー・バーク組に対し、ビル・メルホーンとのペアで対戦している。試合は2アップで宮本・メルホーン組が勝利し、ジョーンズは宮本に5ドル紙幣を手渡した。
 「NIPPON GOLFDOM」1932年5月号に掲載された、宮本の記事「独り旅」で、スコアカードと本人の手紙の内容が紹介されている。宮本はその手紙にこう書いている。
 「二十三日の午後ジョンス氏(ボビー・ジョーンズ)と昨年の米国オープンのチヤンピオン ビリーバーク氏と組んで、私はビルメルホン氏(ビル・メルホーン)と組んで、十八ホールに五弗(ドル)かけて私の方が二アップ致しまして、小生はジョンス氏より五弗貰ってその金にジョンス氏とビリーパーク氏のサインをとりました」

 

ボビー・ジョーンズとビリー・バークがサインした5ドル紙幣が紹介された「NIPPON GOLFDOM」(19325月号)

 

 1932年4月、単身で渡英。プリンス・オブ・ウェールズ(後の英国国王エドワード8世)とプレーする栄誉を賜り、さらには日本人として初めて全英オープン(ロイヤル・セントジョージス)に出場している。
 宮本がただ一人、長期の海外遠征が可能だったのは、茨木カンツリー倶楽部から渡航費、滞在費として6000円の寄付を受けていたからであった。当時の国家公務員の初任給(月額)は75円だったという。
 再び米国に戻った宮本は、全米オープン(フレッシュメドウCC)その他のトーナメントに出場の後、1932年8月初旬に帰国している。
 トーナメントでの優勝はなかったがプロアマ競技に勝つなど、宮本はその実力が欧米でも通用することを証明して見せた。先に紹介したエキシビションマッチで宮本と対戦したボビー・ジョーンズは、茨木カンツリー倶楽部の書記、久富宗憲に宛てた手紙のなかで、宮本を高く評価している。
 「真に偉大なゴルファーとしての条件が宮本に備われる事実を看逃すことは出来ない。(中略)彼のスイングは米国の一流プロに匹敵する」(『NIPPON GOLFDOM』 1932年5月号 

 

日本オープン6勝は
今も破られぬ金字塔

 海外遠征だけでなく、国内のトーナメントでも宮本はその名を歴史に刻んだ。日本オープンでは、1929年に安田幸吉、赤星六郎らを破り初優勝すると、1930年に19打の大差をつけて連覇を飾るなど、通算6勝。これは今も残る大会記録である。
 第二次世界大戦の影響によりプロゴルフの世界から離れていた宮本は、戦後、競技に復帰し、1950年、51年の関西オープンを連覇する。戦争による競技の中断(日本オープンは1942~1949が中止)がなければ、宮本の勝利数はさらに増えていたことだろう。
 1952年、知人の誘いを受けて50歳の宮本は東京に転居。銀座にゴルフショップ「フェアウェー」を開店、同時にクラブの製造を始める。プレーヤーに寄り添う手造りの倶楽部の評判は良かったが、「経営は無茶苦茶」(宮本留吉回顧録『ゴルフ一筋』より)だったという。ゴルフブームの時流に乗れず、70代半ばでクラブ造りをやめた宮本は、以降、都内の練習場などでゴルフのレッスンに専念することとなる。
 1985年12月13日、逝去。ゴルフとともに生きた83年の生涯であった。

 

文/近藤雅美

 

宮本留吉 主な戦績

  • 日本オープン 6勝 1929、30、32、35、36、40年
  • 日本プロ   4勝 1926、29、34、36年
  • 関西オープン 4勝 1928、31、50、51年
  • 関西プロ   4勝 1932、33、41、42年

 

参考文献:
「ゴルフ一筋 宮本留吉回顧録」ベースボール・マガジン社
「NIPPON GOLFDOM」1932年5月号ゴルフドム刊行会
「茨木カンツリー倶楽部40年史」
「茨木カンツリー倶楽部100年誌」 

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