HISTORY 競技
日本人選手初のメジャー挑戦
1932年、宮本留吉が
予選会を経て全英オープンに初参戦
1931(昭和6)年11月から始まった宮本留吉、安田幸吉、浅見緑蔵による日本人プロゴルファー初の米国本土遠征。西海岸でいくつかのトーナメントに参戦した後、翌1932(昭和7)年2月に安田と浅見は帰国の途に就く。1人になった宮本は西海岸から東へと向かうトーナメントと共に移動していった。
3月、フロリダ州でのトーナメントを終えた宮本はノースカロライナ州でボビー・ジョーンズらとのエキシビションマッチに臨み、勝利を収めるという快挙を成し遂げている。
その後、ニューヨークから英国に渡った。船で英国南部のサザンプトンに到着したのが4月29日。宮本はいくつかのトーナメントでプレーしたほか、5月16日には英国皇太子(後のエドワード8世)とプレーを共にしている。日本のプロゴルファーが英国にやって来たことを知ったゴルフ好きの皇太子が宮本とのプレーを希望したようだ。
6月6日、宮本は全英オープンの予選会に出場した。会場は英国南東部のサンドウィッチにあるプリンスズとロイヤル・セントジョージズの2コースで2日間、36ホールで実施された。
当時の全英オープンは前年覇者も含め、全員が予選会に出る必要があった。大阪朝日新聞によると予選会の参加者は252人で、全英オープンに駒を進めることができるのは100位まで。決して低いハードルではない。
初日、プリンスズを回った宮本は79と苦戦した。英国紙の『THE TIMES』は初めて日本から来たプロゴルファーに注目していたようで、記者が何ホールか観戦して6月7日付紙面で記事を書いている。内容をかいつまむと「ショットは力強くヘーゲンを思い起こさせるようであるが、グリーン上で問題があった」というもの。大阪朝日新聞にも「アウトで4度も3パットを出した」という内容の記事が掲載されている。宮本自身も後に回顧録で速いグリーンに悩まされたと振り返っている。
それでも、翌7日はロイヤル・セントジョージズで73にまとめ、通算152の48位で全英オープンの出場権をつかみ取った。これが日本人選手初めてのメジャー出場である。
大会は休む間もなく8日から始まった。会場は予選会で苦労したプリンスズである。宮本は第1ラウンド、第2ラウンドともに79の通算158。カットラインに4打及ばず、ここで初めてのメジャー挑戦は終わった。

英国滞在中の宮本留吉(三女の杉村悦子さん提供)
全英オープンと同年同月、
全米オープンにも挑んだ宮本留吉
全英オープン後、すぐに米国へ戻った。6月17日にニューヨークに着き、2日後にニュージャージーでエキシビションマッチをこなした後、6月23日開幕の全米オープンに参加した。
会場はニューヨーク州のフレッシュメドウCCである。150選手がスタートした第1ラウンド、宮本は82で74位だった。6月24日付の『THE NEW YORK TIMES』は宮本が逆風の578ヤードの5番パー5で10を叩いたという記事を掲載している。
宮本は後に回顧録で10を叩いたのは「9番のロングホール」と書いているが、『THE NEW YORK TIMES』に掲載されているホールバイホールなどによると9番はパー3だから、記憶違いをしていたようだ。
第2ラウンドでも82と巻き返せなかった。通算164はカットラインに4打及ばず、全英オープンと同様に2日間でプレーを終えることになった。
その後、ウェスタンオープンやカナディアンオープンなどのトーナメントでプレーしたほか、米国のトッププロとのエキシビションマッチにも参加している。
龍田丸で横浜港に戻ってきたのが7月28日。先に帰国していた安田と浅見も出迎えに来ていた。
帰国を取材した『ゴルフドム』は遠征時の成績を「加奈太のオタワで行はれたカナダオープン迄にエントリーしたコンペチションの数は二十一回その中クオーリフアイしたもの七回、賞金を獲たもの三回であります」という宮本の言葉でまとめている。さらに「日本のゴルフは英米に比べてまだまだです」という宮本の言葉も掲載している。
帰国後、宮本は9月に関西プロで勝ち、10月には日本オープンゴルフ選手権で優勝と結果を出し、米国遠征の成果をまざまざと見せつけた。
文/宮井善一
参考文献
『日本ゴルフ協会七十年史』
『ゴルフ一筋 宮本留吉回顧録』ベースボール・マガジン社
『ゴルフドム』1932年8月号
『大阪朝日新聞』1932年6月8日付
『THE TIMES』1932年6月7~10日付
『THE NEW YORK TIMES』1932年6月24、25日付
INDEX

