PERSON 設計家
井上 誠一
日本初の職業ゴルフコース設計家
井上 誠一
Seiichi Inoue
1908(明治41)-1981(昭和56)
1908(明治41)年8月1日 、東京生まれ。成蹊高等学校在学中に嗜眠性脳炎を患い、叔父・井上達四郎(霞ヶ関カンツリー倶楽部会員)の「治療に最適」との勧めでゴルフを始めた。1930年、川奈ホテルで療養中、来日していたチャールズ・ヒュー・アリソンと出会い、アリソンの仕事ぶりを見て「面白そうだ、僕もやってみよう」と思い立ったという。
川奈ホテルに滞在中、アリソンは大島コースや、建設途中の富士コースを実際にプレーしたようで「アリソンさんがプレーをしたとき父がキャディをした」と井上誠一の長女・瑛子は語っている。
母のモトは日本で最古の歴史を誇る眼科医院「井上眼科病院」(1881年創立。現・医療法人社団 済安堂 井上眼科病院グループ。東京・御茶ノ水)の創始者・井上達也の長女。父・誠夫はその婿養子で、東京帝大卒業後、ドイツ留学を経て井上眼科病院医院長、順天堂大学初代眼科部長、宮中侍医などを務めた。
霞ヶ関でアリソンの設計を学ぶ
のちに井上は叔父の井上達四郎の勧めで霞ヶ関カンツリー倶楽部に入会。当時、霞ヶ関カンツリー倶楽部の東コースはアリソンの設計で改造中であり、英語が堪能であった井上は、シェーパーを務めていたジョージ・ペングレースの現場助手として改造に参加。隣接地に住まいを構え、コース造りに熱中する日々を過ごした。この時、ペングレース、そしてアリソンの設計図から、ゴルフ設計を学んだという。
当時の日本にはゴルフコース設計の専門家“職業コース設計家”は存在せず、プロゴルファーやゴルフコースに精通したトップアマチュアがコース設計を行っていた。平面的な図面をもとに現場を見ながらコースを造成する“現場主義”が当たり前の時代であった。
「実測にもとづく設計図を使用した最初のコース設計家」と言われるハリー・コルトの影響を受けてコース設計家となり、コルトのパートナーとして活動していたアリソンの立体的な設計手法を学んだ井上は、“日本で初めて緻密な設計図を使用したコース設計家”であり、初めての“職業コース設計家”となったのである。
井上が設計したコースは霞ヶ関カンツリー倶楽部西コースに始まり日本オープンの開催コース11を含む国内40、海外2。霞ヶ関カンツリー倶楽部の記録よれば、1936年にハンディ7を取得している。
1981(昭和56)年11月26日、逝去。
井上誠一の設計コース
- 霞ヶ関カンツリー倶楽部西コース
- 久里浜ゴルフ倶楽部(現存せず)
- 那須ゴルフ倶楽部
- 日立ゴルフ倶楽部(現・大みかゴルフクラブ8ホール)
- アワセメドウズゴルフクラブ(現存せず)
- 川崎国際生田緑地ゴルフ場
- 東雲ゴルフ場(現存せず)
- 大洗ゴルフ倶楽部
- 鷹之台カンツリー倶楽部
- 愛知カンツリー倶楽部
- 日光カンツリー倶楽部
- 西宮カントリー倶楽部
- 札幌ゴルフ倶楽部輪厚コース
- 龍ヶ崎カントリー倶楽部
- 武蔵カントリークラブ豊岡コース
- 枚方カントリー倶楽部
- 武蔵カントリークラブ笹井コース
- 桑名カントリー倶楽部
- 大利根カントリークラブ
- 湘南カントリークラブ
- 茨木カンツリー倶楽部西コース
- よみうりゴルフ倶楽部
- 戸塚カントリー倶楽部西コース
- 赤倉ゴルフコース
- 東京よみうりカントリークラブ
- 春日井カントリークラブ
- 天城高原ゴルフコース
- 室蘭ゴルフ倶楽部白鳥コース
- 伊勢カントリークラブ
- いぶすきゴルフクラブ開聞コース
- 佐賀カントリー倶楽部
- 瀬田ゴルフコース東コース・北コース
- 鶴舞カントリー俱楽部
- 札幌ゴルフ倶楽部由仁コース
- 烏山城カントリークラブ
- 南山カントリークラブ
- 葛城ゴルフ倶楽部
- 大原・御宿ゴルフコース
- スターツ笠間ゴルフ倶楽部
- 浜野ゴルフクラブ
海外
- フィリピナスゴルフ&カントリークラブ フィリピン
- スバン・ナショナル・ゴルフクラブ マレーシア
監修
- 熊本ゴルフ倶楽部阿蘇湯の谷コース
- 毛利庭園ゴルフ倶楽部(9ホールのみ監修)
参考文献:
「霞ヶ関75年史」2005年、霞ヶ関カンツリー倶楽部
「茨木カンツリー倶楽部100周年記念誌」
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