HISTORY ゴルフ場
戸山ヶ原ゴルフ倶楽部
戸山ヶ原とは
現在の新宿区大久保3丁目から山手線を挟んで西側の百人町3丁目・4丁目に跨る一帯(約16万5千平方メートル)¹は、かつて戸山ヶ原と呼ばれていた。
1873(明治6)年、尾張徳川家の下屋敷(戸山山荘)跡地に陸軍戸山学校が設立(明治6年6月22日、兵学寮戸山出張所として創設)²されると、翌年学校の西側は演習地として陸軍に買い上げられた。1882(明治15)年には近衛兵の射撃場が設けられる。『明治東京名所図会下巻』(東京堂出版、1992年)よれば、「陸軍省用地にして戸山学校の西北に当るを以て之を戸山の原といふ。北は戸塚村大字諏訪に沿ひ。西は山手鉄道線に達せり。」³とある。つまり、陸軍戸山学校の西北をもって戸山の原(戸山ヶ原)といい、北は現在の高田馬場1丁目にある諏訪神社附近まで、西は山手線まで達していたというのである。
しかし、日清戦争勃発後、射撃場からの流弾が射朶(流水弾防止用の盛土した所)をすり抜け、さらに山手線の西側まで飛んでいく事故が多発し、住民らは射撃場の移転もしくは地所の買収を陸軍に請求する。そんな折、中野在住の少女が流弾で負傷し死亡する事故が発生する。1898(明治31)年8月、陸軍は山手線の西側にあたる北通地区(現在の百人町3丁目・4丁目)の買収を決行した。こうして戸山ヶ原は山手線を挟み東西に広がる軍用地となったが、軍隊が使用しないときは市民に開放されており、学校の遠足や行楽地として賑わっていた。高低起伏のある地形には、ナラ林、マツ、クヌギなどの雑木林を含み、演習地には草原も広がっていたという。
戦後、戸山ヶ原は米国進駐軍に接収される。接収解除後は国有地となり、やがて民間に払い下げられた。現在、射撃場跡地には、都立戸山公園や早稲田大学・西早稲田キャンパスなどが建てられ、当時とは様子が一変している。
東京都新宿区『新宿区史』1955年より「昭和初年頃の戸山ヶ原」。写真上部は、昭和2年から3年にかけて造られたトンネル式射撃場
戸山ヶ原ゴルフ倶楽部の発足
戸山ヶ原ゴルフ倶楽部(以下、戸山ヶ原GC)は、戸山ヶ原でゴルフをしていた人々によって結成されたゴルフ倶楽部である。『東京日日新聞』によれば、1924(大正13)年1月頃に俱楽部として発足している。以下、同年1月6日付けの『東京日日新聞』に掲載された内容を一部現代語にて要約する。
『東京日日新聞』1924(大正13)年1月6日付け
「この十数年、雨が降ろうが雪が降ろうが一日として戸山ヶ原に姿を見せぬことのない鳥羽老人は、持病の心臓病で余命いくばくもないと医師から宣告された明治40年の春、ゴルフを始めた。老人は洋服を仕立てる仕事をしており、見本に送られてきた写真で外人がゴルフをしているのを見て、自分もひとつやってみようと思い立つ。苦心の末、クラブと球を手に入れ、病身で戸山ヶ原に通った。(中略)老人の目的は技術の進歩ではなく、短命を宣告された健康状態を運動によって回復してみせようとすることにあり、この目的は見事に達せられた。心臓病は一年足らずのうちに回復し医師を驚かせ、それにもまさる喜びは、悲観的な気分があかるい世界に変わり、仕事の能率が倍にも3倍にも上ったことだ。そうして運動の有難みを体験した老人は、十数年間一日も欠かさず戸山ヶ原に現れ、あけの烏や早起きの茶屋の婆さんを驚かせながら、日に3時間ずつ、野(注・戸山ヶ原)のかなたこなたと球を打ちまわった。最近この老人を中心に新しいゴルフ倶楽部が生まれたが、程ヶ谷や駒澤のリンクスが500円から1000円の入会金を徴し、ブルジョワ気分を誇っているのに対し、この倶楽部はどこまでも地味に運動愛好の初心者を集め、ゴルフをもっと一般的なものにしようとしている。なお、入会希望者は市外戸塚町諏訪川崎方ゴルフ倶楽部へ照会すれば誰でも歓迎するとのこと。」⁴
記録⁵によると、この記事は当時大きな反響を呼び、入会希望者は即日80名以上もあったという。そして1924(大正13)年1月13日(日曜日)、発会式を兼ねた初練習が行われた。当時の常連ゴルファーは、名物の鳥羽老人ほか、自宅をクラブハウスに提供している川崎保、明石雷一夫妻、刀禰舘正雄、加藤時夫、村上亘、南薫造など約15名であった。
彼らは戸山ヶ原に6ホール分のティーとホールを定め、軍隊が訓練をしていない早朝や日曜日に集まってはゴルフを楽しんでいたようだ。しかし、レイアウトや距離、また広大な戸山ヶ原のどの辺りでプレーをしていたのか、詳細な記録は残されていない。川崎保の自宅が諏訪神社の近くだったことから山手線より東側の演習地でプレーが行われていたのではないかと考えられるが、確たる証拠はない。
戸山ヶ原のゴルファーたち
先述したように戸山ヶ原で行われていたゴルフの様子を知る資料は少ない。そこで、『GOLF DOM』1924年5月号及び6月号に寄稿した2人の学生の記録を残しておきたい。
まず、5月号の寄稿者「ある学生」は、初めて戸山ヶ原でゴルフをした日に1時間で3つも球を失くしてがっかりした、球探しばかりで練習ができないと嘆きつつ、「日曜日に戸山クラブの人達となじみになりまして、仲間に入ってやり出してから一緒に探してくれたり、或いは球の方向を見て置いてもらえるので、その日は3時間くらいぶらぶらしておりましたが、1つも失わずに済みました。相当な年配の人ばかりですが、皆親切で新米をすぐ仲間に入れ、色々コーチしてくれながら一緒に打たしてくれました。連中は大抵ウードン(注・ウッドクラブ)を1つ、アイヤンを(注・アイアン)を1つ持ってティショットはウードンでやり、次からアイヤンでやっております。ちゃんと、ティもホールも決まっております。凸凹のところにあるホールで、グリーンがありませんから、入れるには中々幾度もやらねばなりません。(中略)まだクラブの名前も知らない人が沢山おります。グラスゴーで長年やっていたという人が色々教えてくれました。日曜度に少しずつ教わるつもりでおります。言われてから打ちますと、飛び方が違いますから不思議です。」⁶と、大抵のゴルファーはクラブ2本でプレーしていたこと、ティとホール(穴)はあるが整備されたグリーンではなかったこと、英国帰りの上級者が初心者に指導していたことなど、当時の様子をよく記している。さらにこの学生は、「平日は朝の7時には兵隊さんが来るので引き上げねばなりません。家をいくら早く出ても6時頃到着くのですから1時間しかやれません。(中略)人に気兼ねしながらするので、戸山クラブの連中も一度でよいから一日邪魔のないところでしたいと言っております。」⁷と続けている。
6月号には「ある農大生」が、騎兵隊とのエピソードを綴っている。「キャディなしとはいえ、時には大層贅沢なキャディができるときがあります。ある朝、騎兵隊の練習がありました。監督の下士が3人馬に乗って、わきのほうで見ておりましたが、退屈なので私どものほうへやって参りました。少し説明をして皆で打ち出しますと、馬の上から見ておいてくれます。訓練された目と高い馬上からなので、見当は確かです。しかも馬をとばして球のありかを教えてくれ、そのそばに立っております。丁度飛行機が潜水艦を探し易いように高いところから見ると草の中に隠れている球がよく見える様です。こんな立派なキャディは程ヶ谷にだってあるまいと皆がニヤリ…」⁸キャディどころか、実際にはコースも持たぬ戸山ヶ原GCのエピソードである。
1924(大正13)年、武蔵野カンツリー倶楽部設立
戸山ヶ原GCは新聞で紹介されて以降、会員が急増する。次第に会員たちの間で、時間に制約のある戸山ヶ原とは別に専用のコースを持ちたいという機運が高まった。川崎保と明石雷一、それに東京日日新聞の記者・京田による土地探しが始まったのは、1924(大正13)年の春頃のことである。当初は目黒競馬場の内側を借りることを考えたが、借地料で折り合いがつかず、最終的に東京府下南多摩郡七生村平山(現在の東京都日野市平山)に土地を借り入れることになった。同時に、新たに「武蔵野カンツリー俱楽部」が設立された。しかし、新コースは新宿から電車で片道約1時間かかる為、休日にしか行くことが出来ぬ者も出てくる。そこで平日は、これまで通り戸山ヶ原でプレーする者も多かったようだ。
戸山ヶ原から派生した武蔵野カンツリー倶楽部は、後に「関東8倶楽部」といわれるまでに発展するが、その源流は戸山ヶ原にあったことを記しておく。
文/井手口香
註
1)新宿区教育委員会社会教育課『ガイドブック新宿区の文化財(8)景観』1983年、p.119
2)鵜沢尚信『陸軍戸山学校略史』1969年、p.13
3)朝倉治彦・槌田満文編『明治東京名所図会下巻』東京堂出版、1992年、p.433
4)『東京日日新聞』1924年1月6日
5)摂津茂和『世界ゴルフ大観-日本篇 新版日本ゴルフ60年史』ベースボール・マガジン社、1977年、p.78
6)『GOLF DOM』1924年5月号、pp.7-8
7)同前、pp.7-8
8)『GOLF DOM』1924年6月号、pp.9-12
参考文献
財団法人新宿区生涯学習財団新宿歴史博物館学芸課『新宿区の民俗(6)淀橋地区篇』2003年
財団法人新宿区生涯学習財団新宿歴史博物館学芸課『新修 新宿区町名誌』2010年
東京都新宿区『新宿区史』1955年
朝倉治彦・槌田満文編『明治東京名所図会下巻』東京堂出版、1992年
浜田煕 『戸山ケ原 : 今はむかし… 記憶画』浜田煕、1988年
摂津茂和『世界ゴルフ大観-日本篇 新版日本ゴルフ60年史』ベースボール・マガジン社、1977年
井上勝純『日本ゴルフ全集4 日本ゴルフコース発達史(2)』三集出版、1994年
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