HISTORY 競技
第1回関西オープン
プロもアマも参加できる
日本初のオープン競技
日本ゴルフ協会の創立から2年後、1926(大正15)年に関西ゴルフ連盟が発足した。10月7日、神戸オリエンタルホテルに関西7倶楽部(神戸、鳴尾、舞子、甲南、茨木、京都、宝塚)の代表者が集まり、関西ゴルフ連盟の設立を決議。早速11月7日に同連盟主催の第1回関西オープンゴルフ選手権を茨木カンツリー倶楽部で開催した。
この年の7月、茨木CCで国内初のプロ競技である第1回日本プロ(当時の大会名は全日本ゴルフ・プロフェッショナル36ホール・メダルプレー争覇戦)が大阪毎日新聞社の主導で行われていたが、これはプロだけのトーナメント。関西オープンはプロもアマチュアも参加できるもので、日本で初めてのオープン競技だった。
出場者はプロ7人、アマチュア25人との記録が残っている。プロは関西の選手だけだが、アマチュアは大谷光明や赤星四郎ら関東の倶楽部に所属しているプレーヤーも参加していた。
競技は36ホールストロークプレーで争われ、前半の18ホールは72をマークした福井覚治が首位に立った。2位は中上数一、越道政吉の81だからその差は9打。圧倒的なリードである。
第1回関西オープンに優勝した福井覚治。
「ゴルフドム」1930年4月号の追悼記事より転載
第1回関西オープンが
福井覚治、最初にして最後の優勝
茨木CCは1925年の開場時は5,812ヤード、パー69だった。第1回日本プロが終わった後、1926年9月から拡張工事に入り、翌年9月に6,210ヤード、パー72のコースとなっている。第1回関西オープンは拡張工事中に行われており、距離等は不明だが、いずれにせよ福井が出した72は特筆すべき好スコアであることは間違いない。
「ゴルフドム」に掲載されているホールバイホールのスコアを見ると18ホールを終えて半数近い選手が棄権している。36ホールすべてプレーしたのはプロ4人、アマチュア11人の計15人だけだった。
福井は82にまとめ、通算154でホールアウト。2位の中上に8打差をつけて圧勝した。3位は164の越道。4位は170で第1回日本プロ覇者の宮本留吉とアマチュアの伊地知虎彦が分けた。12位には関西ゴルフ連盟初代チェアマン南郷三郎の名がある。
「ゴルフドム」は福井のプレーについて「見事だったのはアプローチとパットである」という内容の記事を掲載している。『ゴルフドム』によれば福井は身長5尺1寸、体重12貫未満だから身長は154.5cmで体重は45キロに満たなかったことになる。
小柄で痩身の福井は宮本とのプレーオフに敗れた日本プロでは大阪毎日新聞の記事によるとティーショットで30~40ヤードの差をつけられていた。飛距離はあまり出なかったようだ。その代りにショートゲームがうまかった。当時の記事からそんな福井のプレースタイルが浮かび上がってくる。
病気がちだった福井はこの後、トーナメントで好成績を挙げることができず、1930年に37歳の若さで病没している。第1回関西オープンが日本初のプロゴルファー・福井覚治の最初で最後のタイトルとなった。
文責・宮井善一
参考文献:
「ゴルフドム」1926年11月号、1930年4月号
「大阪毎日新聞」
「関西ゴルフ連盟40年史」
「日本ゴルフ60年史」摂津茂和著、ベースボールマガジン社
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