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HISTORY ゴルフ場

名古屋ゴルフ倶楽部和合コース

1929年、名古屋を東京・大阪に比肩する
近代的な都市にすることを企図して開場

 中部(東海)地区で最初に開設されたゴルフ場は、「和合」の通称で知られる名古屋ゴルフ倶楽部和合コースである。国内男子の民間主催トーナメントの嚆矢である「中日クラウンズ」の舞台でもある同コースが開場したのは1929(昭和4)年9月15日のこと。その誕生のきっかけについて、同倶楽部の年史「和合の三十年」には次のように記されてある。

 「最初にこの話をきり出したのは先代の伊藤次郎左衛門氏である。その理由は、大都市の条件には、飛行場とホテルとゴルフ場があげられる。すでに東京、大阪にはこの三つの条件がそろっている。名古屋にはそのいずれもまだ出来ていない。ぜひ名古屋にゴルフ場を作ろうという声があがったわけである」

 ここで語られる「先代の伊藤次郎左衛門氏」とは、松坂屋(現・大丸松坂屋百貨店)の創業家である伊藤家の第15代当主、伊藤次郎左衛門祐民(幼名:守松。1878(明治11)年~1940(昭和15)年)のこと。当時、伊藤は名古屋商業会議所(1928(昭和3)年に名古屋商工会議所と改称)の会頭で、同ゴルフ場の開設に多数のメンバーが出資した名古屋ロータリークラブの会長も務めていた名古屋財界の中心人物である。伊藤らは飛行場、ホテルとともにゴルフ場を造ることで、名古屋を東京・大阪に比肩する近代的な都市に発展させることを企図したのだった。

 しかし、その伊藤はゴルフのことをほとんど知らなかった。そこで周囲に詳しい者を探したところ、ロータリークラブメンバーの八木冨三の名前が挙がり、相談した。すると八木は「くわしいことは分からないが、ゴルフには興味がある」と意欲をみせたので、八木を中心にゴルフクラブ設立計画を作ることになった。さっそく八木は日本ゴルフ協会を皮切りに、既設の国内のゴルフ場を訪問、見学。あわせてゴルフの練習を始めた。

 1か月足らずの間に東西のゴルフ場を全部回った八木は、大急ぎでゴルフ場計画概要をまとめ、伊藤に提出した。

「それによれば、ロータリー倶楽部有志1人1万円の出資をあおぎ、資本金25万円の株式会社名古屋ゴルフ倶楽部を設立、名古屋近郊の地に約5万坪(約16.5万平方メートル)の土地を買収し、18ホールのコースをつくるというもので、候補地、収支見通しなど具体的な資料も添えてあった」(名古屋ゴルフ倶楽部年史「和合の五十年」)

 1928(昭和3)年3月13日、伊藤はロータリークラブの例会で、八木が作成した概要をもとにゴルフ倶楽部創設の計画を発表する。そのうえで会員に意見を求めたところ、彼の熱弁と八木の詳細な計画案に一同異論なく、計画はさっそく実行に移された。

 ところで、当時の1万円の価値だが、同年史には「芸子さんが1万円貯めると一生涯食えるので、1万円を貯めたいというのが最大の欲望だった」という記述がある。そして、「それだけの価値ある1万円を、ゴルフのなんたるかを知らない人たちが、ゴルフ場に投資しようじゃないか、というのだから、われらの先覚者は余程の人だったと思う」と感嘆の言葉がつづられてある。

 それから2カ月足らず後の5月1日、名古屋商工会議所で株式会社名古屋ゴルフ倶楽部の設立総会が開催される。60人ほどの株式引受人は、ほとんどが名古屋ロータリークラブのメンバーだった。

 

1929(昭和4)年9月15日、開場式の記念写真。中央着座は朝香宮両殿下。朝香宮殿下の後ろはコース設計者の大谷光明。『ゴルフドム』1929年10月号より転載

 

土地を買い足し、山を削り、土地を改良。
苦心の末に誕生した、大谷光明設計のコース

その後、名古屋の中心地から20㎞ほど東の郊外、東郷村大字和合にまとまった土地の買収が済んだところで大谷光明に設計を依頼する。前出「和合の三十年」には、そのあたりの経緯が次のように書かれてある。

 「土地が一応まとまったので、大谷光明さんに見てもらうことになった。(中略)加藤勝太郎さんが宗旨の関係で西本願寺の関係から頼みに行ったところ承諾されて大谷尊由さんと名古屋に来られた。土地の面積は15万5千坪もあった。これだけの土地があったら、ゴルフ場を作って、まだ空地が残る。それを分譲しようという話もあった。ところが大谷さんが見えて、これじゃ狭くてどうしようもない。それに土地も悪い、他へ変ってはどうかという。それは困る。土地を買ってしまったからなんとかしてもらわなければ、ということになった。大谷さんは、じゃ無理してでも、ここを買え、あそこを買えといわれ、入り込んだところをちょいちょい買い足した」と、和合の造成計画は出だしからつまずいた。ここに登場した加藤勝太郎は名古屋の実業家(貿易商)で、名古屋ゴルフ倶楽部の取締役。大谷尊由はコース設計者の大谷光明の実弟である。

 一方、用地を視察した大谷光明は当時のことを次のように振り返っている(「和合の三十年」)。

 「第一に面積が一流のコースにするには足りない。第二に地形の起伏がせせこましくて面白くない。第三に土質が悪い。あれでは芝が育たない。いわば悪い方の三拍子がそろっているとお答えした」

 これに対して八木たちは、土地はいくらでも買い足す、地形は削るなり埋めるなりする、土質は肥料によって改善するからと強く懇願。大谷は「そうまで言われると私も断るわけにゆかないので、遂に設計と工事監督をお引受けすることになった」と承諾する。

 大谷は改めて実地踏査、設計案ができたところで、8月16日に地鎮祭を挙行。工事に着手する。ところが、工事途中に「いよいよ工事を始めてみると金の足りないことが明白になったが、流石に大名古屋である。忽ち倍額増資を決定した。遊びごとであるゴルフに、赤字は予想されても黒字は当分見込みのない経営に、ゴルフを見たこともない連中に、倍額の出資を敢えてさせたことは、出しも出したり、名古屋人の腹の太いことに感心すると共に、将来名古屋は東京、大阪と並んで日本の三大都市となり、京都の如きはこのグループから落伍は必定と痛感した」と倶楽部側の熱意を賞賛している。

 また、大谷が一番の課題と考えていた土質も、グリーンとティーイングエリアはもちろん、フェアウェイの全面に至るまで、肥料となる馬糞が10センチ以上の厚さに敷き詰められ、その上に土を被せることで芝が育つ土壌に改良された。この肥料については和合コースの開場式に出席した朝香鳩彦(戦前の朝香宮鳩彦王)が「八木冨三氏の努力によって豊橋騎兵旅団の馬糞を貨車で運んで、全コースのフェアーウェー一面に敷き詰めた結果、私が開場式に参りました時には青々とした芝生で、愉快にプレーが出来ました」(原文ママ)と同年史のなかで振り返っている。大谷も、和合コースがゴルフ場として成功した一番の要因にこの馬糞を挙げている。

 こうして翌1929(昭和4)年9月、当時「和合リンクス」と呼ばれていた18ホール、6063ヤード、パー69のコースが完成。開場式には、前述の朝香宮殿下、同妃殿下を始め、東西の著名なゴルフ関係者が揃って出席。華やかな式典とコンペティションが繰り広げられた。

 

名古屋ゴルフ倶楽部では、1960(昭和35)年から中日クラウンズ(当時の名称は中部日本招待全日本アマ・プロ・ゴルフ選手権)が開催されている。写真は1966(昭和41)年の第7回大会

 

戦時中の接収、荒廃を乗り越え1953年、
再び株式会社名古屋ゴルフ倶楽部に

 その後、1936(昭和11)年には日本プロゴルフ選手権も開催されたが、次第に戦時色が強まるなか、「会員も世間に対しゴルフを公然プレーすることをはばかるようになり、自然利用者も少なくなった」(「和合の三十年」)

 そして、ゴルフ場経営がいよいよ難しくなった1944(昭和19)年6月、陸軍から倶楽部側へ、造兵廠(ぞうへいしょう。旧日本軍施設の総称)建設のため和合コース譲渡の要請が届く。陸軍は病院建設を計画していたと伝えられている。これを受け、名古屋ゴルフ倶楽部は同年9月15日に「臨時株主総会」を開き、45万円でゴルフ場施設の一切を譲渡することを決議。同会社の解散も決定した。

 戦後、和合コースは、まず進駐してきたアメリカ陸軍がクラブハウスを下士官クラブとして使用した。当時、ゴルフ場はほとんどが荒れ地だったが、一部はイモ畑になっていたようだ(「和合の五十年」)。

 1947(昭和22)年、代わって進駐したアメリカ空軍が本格的にゴルフ場として接収。1950(昭和25)年1月、戦前からのゴルファーたちが策を弄し、「日米協会」の組織名で米軍側と交渉。1週間に2回、半日ずつ日本人のコース利用が認められた。ただし、クラブハウスの使用は許されず、プレーヤーはキャディー用に建てられた小屋を使うという窮屈な思いを強いられた。

 1951(昭和26)年、日米講和条約締結の機運が高まると、それにともなって和合コースの接収も解除されることを視野に、所有者である大蔵省から払い下げを受ける法人組織が必要になるため、改めて資本金250万円の株式会社名古屋ゴルフ倶楽部を設立。その後、大蔵省に対する払い下げ申請を経て、1953(昭和28)年3月31日に正式に国からの払い下げが成立。和合コースは戦前のように株式会社名古屋ゴルフ倶楽部の所有となった。

 

文/小関洋一

 

名古屋ゴルフ倶楽部和合コース

 

参考文献

名古屋ゴルフ倶楽部年史『和合の三十年』

同『和合の五十年』

中西弘安『東海のゴルフ史Ⅰ』(株式会社日本ゴルフ同友会) 

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