HISTORY 競技
日本人プロ初の海外遠征
1929年、ハワイアンオープン
日本人プロ、初めて海を渡る
日本人プロゴルファーが初めて海外のトーナメントに出場したのは1929(昭和4)年11月のことだ。トーナメントはハワイアンオープン。海を渡った選手は宮本留吉と安田幸吉である。
この年の秋、ハワイから8人のアマチュア選手団が来日した。JGAが招いたもので、一行は日本アマチュアゴルフ選手権に参戦したほか、日本選手との親善マッチを行った。
ハワイ選手団のキャプテン、フランシス・ブラウンは米上院議員も務めていた人物。日本アマチュアゴルフ選手権では見事優勝を果たすほど、ゴルフの腕前も見事だった。
このブラウンが日本人プロ初海外遠征実現のキーマンとなる。日本でもてなしを受けた返礼として、11月に開催されるハワイアンオープンに日本人プロを招きたいと提案したのだ。
『日本ゴルフ協会七十年史』は海外遠征が実現するまでの経緯を以下のように記している。
「窓口のJGAは、当初、予算がないことを理由に断ったが、ブラウン側は『金がないなら滞在費一切を負担する』と、再度出場を要請してきた。このためJGAはしぶしぶ折れ、 『必要経費、小遣いなどは所属先のクラブの負担』という条件で送り出した。」
招待を受けたからといってすぐに喜んで送り出せるほど日本ゴルフ界の態勢が整っていなかったことが読み取れる。また、国内でプロのトーナメントが始まったのはわずかこの3年前で、日本人プロはトーナメントの経験自体が乏しく、海外に送り出せるほどの力があるかどうか不透明だったこともJGAがしぶった理由のようだ。
10月27日、宮本と安田は帰国するハワイ選手団と一緒に横浜港から大洋丸で出航した。この時、宮本27歳、安田24歳。2人は6月に行われた日本オープンゴルフ選手権の1位(宮本)と2位(安田)だった。
大洋丸には同じく招待されたアマチュアの川崎肇も同乗していた。ただ、川崎はハワイアンオープンでプレーしていない。『日本ゴルフ協会七十年史』によると、大会直前に風邪で発熱したため、出場を辞退したようだ。
大洋丸は11月5日にハワイ・オアフ島のホノルルに到着した。一行はロイヤルハワイアンホテルに宿泊。宮本と安田は異国の地で文化の違いなどに戸惑いながらも練習を重ねて大会に備えた。

ハワイアンオープンの出場者たち。前列左から4人目が安田幸吉、後列左から4人目が宮本留吉。『日本プロゴルフ協会30年史』より
開催コースは、青木功の米ツアー初優勝の舞台
ワイアラエカントリークラブ
大会会場はワイアラエカントリークラブ。後に青木功が日本人選手初の米ツアー優勝を成し遂げるワイアラエカントリークラブは当時、開場して2年ほどの新しいコースだった。ゴルフ誌の『ゴルフドム』には6468ヤード、パー72と掲載されている。
ハワイアンオープンは前年に創設されたばかり。この年の出場者は32人で、地元の選手だけでなく米国本土からもジーン・サラゼンやトミー・アーマーら一流どころが多数参戦していた。
11月15日、ハワイアンオープンは開幕した。初日、宮本は75で回って5位につける。安田は79でやや出遅れた。
2日目、宮本は4バーディ、3ボギーで1アンダーの71をマークする。2日間通算では2オーバー、146。これは1アンダー、143のホートン・スミス、イーブンパー、144のクレイグ・ウッドに続く3位のスコアである。安田は通算8オーバー、152で2日目を終えた。
36ホールをプレーする最終日、宮本は首位スミス、2位ウッドとのペアリングとなった。スタート順は不明だが、今でいうところの“最終日最終組”である。
最終日は午前中に雨が降り、雨がやんだ午後は強い風が吹いた。厳しいコンディションに加えて大勢の観客の前でプレーするという経験のない状況に硬くなった面もあっただろう。宮本は本来のゴルフができず、78、82と崩れた。
安田も77、81と苦戦する。最終的に宮本は18オーバー、306で13位、安田は22オーバー、310で17位という成績だった。優勝したのはウッド。スコアは1オーバー、289だった。

米国本土へと、ひと足先に帰った米国選手団を見送った際の記念写真。前列左端が安田幸吉、前列左から3人目が宮本留吉。宮本留吉三女・杉村悦子さん所蔵
宮本は『ゴルフドム』に寄せた談話で米国選手との違いについて言及している。要約すると、「ティーショットはあまり変わらないが、米国選手はグリーンに近づいてからが正確で、乗らなかった場合でも必ずピンに寄せてくる」というものである。
また、『ゴルフドム』によると最終日の宮本の組には約800人の観客がついていたようだ。当時の日本では考えられないような多い人数で、宮本自身「見物人に慣れることの必要を痛感した」と記している。
大会後、帰国の船便までは3週間ほどあり、宮本と安田は観光を楽しんだり、ひと足先に帰る米国選手を見送りにいったりして過ごしたようだ。
横浜港に戻ってきたのは12月7日。2人は経験という何物にも換え難い土産を持ち帰った。
文/宮井善一
参考文献
『日本ゴルフ協会七十年史』
『ゴルフドム』1929年12月号
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