PERSON ゴルフの先駆者
日本人初の女性ゴルファー、小倉末子
1907年、神戸ゴルフ倶楽部でプレー
1930年に出版された「日本のゴルフ史」のなかで、著者の西村貫一はこう記している。
「六甲で最初に、日本人として家を持っていた小倉庄太郎氏の令妹末子さん(当時十五歳)は、日本で最初の婦人ゴルファーであります。その頃六甲のキャディになった中上数一(現在のプロ)は同嬢と一緒にコースを回ったと云っています」
また西村は当時のゴルフ雑誌「ゴルフドム」(1930年8月号)の座談会においても「ゴルフを六甲で日本人で最初にした方は、1907年頃小倉庄太郎氏が同氏の妹さんの現在音楽家の末子さんと、兎も角もゴルフの球をクラブで打たれたのです。(中略)末子さんも中上も二人の話を聞きました」と述べている。
小倉末子が競技会に出たといった記録はなく、どの程度の腕前だったかもわからないが、日本のゴルフコースで初めてプレーした日本人女性であることは間違いのないようだ。
神戸ゴルフ倶楽部での一葉。
写真右が小倉庄太郎(1865-1946)、
左が小倉末子(1891-1944)。
「日本のゴルフ史」より転載
戦前の日本を代表する
ピアニストであり、教育者
小倉末子は1891(明治24)年、旧大垣藩士・小倉周一の三女として生まれた。その後、父が早く亡くなったため、神戸で貿易商をしていた兄・庄太郎に、5歳のときに引き取られて育てられた。
小倉庄太郎は、ドイツに渡って貿易を学び、当時は神戸を拠点に花筵(はなむしろ)の輸出で莫大な財をなしていた。神戸ゴルフ倶楽部に在籍する在留外国人たちとも親しく、六甲に初めて別荘を建てた日本人だった。1905年には、神戸ゴルフ倶楽部の会員となっている。
庄太郎の妻マリアはベルリン生まれのドイツ人で、音楽に造詣が深く、末子に音楽の才能があると見抜くと、小学校に上がる前から外国人教師をつけてピアノのレッスンを受けさせていたという。
末子は1910年に神戸女学院を卒業すると、東京音楽学校で半年、ドイツのベルリン王立音楽院(現ベルリン芸術大学)で2年あまりカール・ハインリッヒ・バルトにピアノを学んだ。その後、アメリカに渡りピアニスト、指導者として注目を集めて帰国。1916年に東京音楽学校ピアノ科講師、翌年、25歳の若さで教授に就任する。以後、大正時代から1944(昭和19)年に亡くなるまで演奏と指導の第一線で活躍、新聞やラジオ、女性誌などにたびたび取り上げられ、スターも顔負けの人気を博していた。
もし、小倉末子が趣味としてゴルフのプレーを継続していれば、日本のゴルフ史は今とは違うものになっていたことだろう。
参考文献:
「日本のゴルフ史」西村貫一著、初版1930年、文友堂
茨木カンツリー倶楽部40年史「座談会 婦人ゴルファーの草分け」
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