HISTORY 人物
鍋島直泰

日本アマチュアゴルフ選手権優勝の記念の1枚。『ゴルフドム』1933(昭和8)年6月号より
鍋島直泰
Naoyasu Nabeshima
1907(明治40)~1981(昭和56)
「殿様ゴルファー」と呼ばれて
日本アマチュアゴルフ選手権を三連覇した日本人は過去3人しかいないが、鍋島直泰はそれを最初に成し遂げた。佐賀鍋島家の跡取り(12代直映の嫡男。室は朝香宮鳩彦王第一王女紀久子)であったため、「殿様ゴルファー」とも言われた。戦後、軽井沢ゴルフ倶楽部で鍋島と親しく交わった佐藤泰春と犬丸一郎は鍋島のことを次のように回顧する。
佐藤:本当に「お殿様」そのものの方でしたね。人に会っても、挨拶しない、お辞儀しないで、いつも泰然自若としてた。
犬丸:殿のゴルフの腕前は大変なものだったけど、一緒にゴルフをしていても、何もしゃべらないんだよねえ(笑)。こちらが質問すると、「いまのは、スタンスが悪い」と一言いうだけで、どうすればいいのかは教えてくれない。
泰然自若の鍋島は多趣味の人でもあった。
侯爵家の跡取りから日本アマチャンピオンへ
鍋島直泰は鍋島侯爵家の長男として1907(明治40)年に生まれた。学習院初等科を首席で卒業、「性質温良恭倹なる模範生にして、体育も亦第一等」と評された。ゴルフは父親に手ほどきをされ、中等科の頃、東京ゴルフ倶楽部駒沢コースで初めてラウンドした。
高等科時代に程ヶ谷カントリー倶楽部に入会して本格的にゴルフを始めた。東京帝国大学(現・東京大学)を卒業した頃に東京ゴルフ倶楽部にも入会し、腕を磨いた。赤星四郎、六郎、川崎肇ら歴代チャンピオンに見てもらったというから、まさに英才教育である。
1932(昭和7)年の日本アマチュアゴルフ選手権では決勝に進んだが、茨木の成宮喜兵衛に負けた。翌33(昭和8)年の同選手権は廣野ゴルフ倶楽部での開催だった。鍋島は2週間前に廣野に赴き、3日間ラウンドした。「廣野ではごまかしショットでは駄目と考えて随分研究した」が、よくならないと観念、「毎日適当に打って居れば滅茶なこともないだろう」と思い直した。そして、アプローチとパットを特に練習したと語っている。
クォリファイングの2ラウンドでは計155打、2位の成宮に8打差をつけた。順調に勝ち進んだマッチプレー決勝の相手は再び成宮、これを5アンド3で降し雪辱を遂げた。満25歳での優勝だった。
1934(昭和9)年は東京ゴルフ倶楽部朝霞コースで優勝。このときは、準決勝の成宮とのマッチが山場だった。鍋島は残り2ホール、2ダウンから盛り返し、エキストラホールで成宮を下した。さらに、翌35(昭和10)年、再び廣野で勝ち3連覇を達成した。廣野と朝霞、3年ともC.H.アリソン設計のコースだったのは偶然ではないかもしれない。
パッティングについて、鍋島はここぞというとき、グリーンに両手をつき、這ってラインを読んだ。下村海南は鍋島をヤッチャンと呼んだのだが「ヤッチャンは両手をついてためつすがめつとりしらべの結果、ロング・パットで沈めてしまう」とし、入念にプレーするという心持ちに頭が下がると書いた。
1936(昭和11)年は佐藤儀一に敗れ、連覇は途絶えた。鍋島はこれらのスコアカードをほとんど保存していたのだが、「昭和20年5月の大空襲で渋谷の家が焼け、すべて烏有に帰したのは残念至極」と回顧した。戦後は世界アマチュアゴルフチーム選手権に日本代表として出るなど、息の長い活躍をした。

『ゴルフドム』1928(昭和3)年6月号に掲載された
鍋島直泰の連続写真
「ウンナンシボリアゲハ」の標本写真
ところで、鍋島は学習院時代から多趣味で、ゴルフの他にテニスや乗馬、鉄道模型も楽しんだ。中でも、蝶が好きで、そのコレクションは数千にも及んだ。軽井沢でのプライベートのラウンドでは捕虫網をキャディバッグに忍ばせ、プレーの合間に蝶を追いかけたという。
余談になるが、そんな鍋島が訪英することになり、それを聞きつけた蝶の専門家が「幻の蝶」の標本を撮影してきてほしいと依頼した。その蝶は「ウンナンシボリアゲハ」という名で、中国雲南地方に生息するが、標本は大英博物館所蔵のただ一点しかなかった。鍋島は首尾よく標本のカラー写真をものにして持ち帰り、日本の蝶の研究者やマニアを大いに喜ばせた。
鍋島の撮影から10年あまり後、1981(昭和56)年中国四川省ミニヤコンカ峰登山隊のメンバーが一挙14頭の「幻の蝶」採集に成功するという後日談もついた。
後半ハーフでホールインワン二つ!?
さて、鍋島に椿事が起きたのは1961(昭和36)年3月5日のことである。鍋島は程ヶ谷カントリー倶楽部をラウンドしていたのだが、10番157ヤードでホールインワンを達成した。前の組がバンザイをして喜んだ。そして、迎えた16番148ヤード、6番アイアンでショットすると、「ピンの2ヤードぐらい手前に落ちて、球は見えなくなった。すると歓声があがった」。ティにいた面々が飛びついてきて、セーターが破れそうになったという。鍋島は「ダブルホールインワンは程ヶ谷における忘れ難き思い出であり、名誉なこと」と語る。年史『程ヶ谷50年』においての鍋島60歳台半ばのころの回顧である。
鍋島は、しかし「私だって、ショートホールのバンカーで幾つ打っても出ず、ついに3アイアンでぶったたいたら転がり上がって3パット、13という記録だって持っております」と話を続ける。そして「やはりゴルフはやめられない」と結んでいる。
文/河村盛文
参考文献
『軽井沢伝説』 犬丸一郎 著
『スポーツマンの精神』矢島鐘二 著
『趣味大観』趣味の人社
『日本ゴルフ全集7 人物評伝編』 井上勝純 著
雑誌『ゴルフドム』1933年6月号、34年6月号、35年6月号
雑誌『インセクタリウム』1981年10月号
『程ヶ谷50年』程ヶ谷カントリー倶楽部50年史編集委員会 編著
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