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生糸を輸出し、ゴルフを輸入した男 新井領一郎

新井 領一郎
Rioichiro Arai
1855(安政2)年~1939(昭和14)年

 

生糸輸出のために渡米

 新井領一郎は1855(安政2)年、今の群馬県桐生市の豪農、星野家に生まれた。桐生は養蚕と製糸、織物が盛んな土地で、六男だった領一郎は絹織物業者に生糸を提供する問屋を営む新井家の養子となった。そして、東京開成学校(現・東京大学)で英語を学び、商法講習所(現・一橋大学)で商業を学んだ。
 その頃、領一郎の生家の長兄、星野長太郎は地元に製糸工場を完成させていたが、生糸を輸出するのに外国商人を頼っていては利益の大半を持っていかれることに気付いていた。そこで、日本人が自ら輸出ルートを持つのが急務と考え、その役目は領一郎に託されることになった。
 領一郎は1876(明治9)年、渡米した。ニューヨークに腰を落ち着け、日本から持参の生糸の見本を手に販売相手を探してまわった。60年を越える滞米の始まりだった。
 初めての土地での信用はなく、生糸の輸送手段や日本への送金などすべて手探りだったが、領一郎はまず初めに正直な商人だという評判を得た。また、日本の生糸の商品力は強く、やがて商売は軌道に乗った。
 後年、アメリカ人生糸商、ウィリアム・スキナーはあるパーティーで次のように述べた。「1876年、たった108梱(こり)だった輸入が1929年には53万2000梱になっているとは! 新井君こそが日本の生糸を米国に紹介することによって、だれよりも日本に貢献した」と。

 

日本のゴルフ黎明期に大きな役割を果たした
新井領一郎(写真左)と、同じ船で渡米した
森村グループの源流である森村組(現 森村商事㈱)を、
兄・市左衛門と共に創設した森村豊(写真右)。
新井領一郎は2026年度の日本ゴルフ殿堂
【貢献部門】で顕彰者に選ばれている
出典/森村勇編『おもかげ集』(森村商事株式会社所蔵)

 

 

領一郎の蒔いた種① 井上準之助

 さて、ここでゴルフの話になる。滞米生活がゆうに20年を越えた1902(明治35)年、領一郎はノース・カロライナ州のパインハーストでゴルフと出会った。ゴルフを始めたのは、1899(明治32)年、ニューヨーク郊外のウェスト・フィールド・ゴルフ倶楽部と言う説もあるが、いずれにせよ、日本で神戸ゴルフ倶楽部が開場する前のことだから、日本人で最も早い時期のゴルファーである。のみならず、領一郎がゴルフを勧めた人たちが、日本のゴルフ黎明期に大きな役割を果たすのだ。
 事業に成功した後も、領一郎の日常生活は変わらず質素だったが、ゴルフには情熱を注いだ。そして、ニューヨークの日本人たちに誰彼となくゴルフを勧めてまわった。
 その一人が、日銀ニューヨーク代理店(現在の支店に相当)に赴任した井上準之助である。井上は日銀の総裁候補と言われたが、左遷される形で当地に来た。無聊(ぶりょう)をかこっていたところ、領一郎にゴルフを勧められ、ゴルフの魅力と効能に魅せられた。
 1911(明治44)年に帰国した井上は、自ら率先して出資者を集め用地交渉をして、1914(大正3)年に東京ゴルフ倶楽部駒沢コースを開場させた。日本人による、日本人のための初めてのゴルフ倶楽部である。

 

領一郎の蒔いた種② 7代目森村市左衛門(森村開作)

   30人の第一次賛助会員には、領一郎も名を連ねたが、この30人の中にもう一人、領一郎からゴルフを授けられた重要人物がいる。それは領一郎と同じ船で渡米した森村豊(もりむら・とよ。6代目森村市左衛門の弟で、兄と貿易商社「森村組」を設立)の甥にあたる、森村開作である。
 開作は森村本家の6代目市左衛門の次男で、慶應義塾を卒業して1893(明治26)年にニューヨークにやってきた。森村豊のもとで貿易の仕事を学ぶねらいだったのだろう。森村組(戦後、森村商事に改組)と領一郎は事業の重要なパートナーであった。開作は1902(明治35)年に帰国することになったが、その際、領一郎たち3人から餞別にゴルフセットを贈られた。開作は帰国後、このクラブを携え、横浜生糸会社の荒川新十郎に連れられて根岸コースで初めてラウンドをしたという。
 この荒川が井上準之助とともに、東京ゴルフ倶楽部の発起人となり、開作も第一次賛助会員となった。のみならず、開作は程ヶ谷カントリー倶楽部や東京ゴルフ倶楽部朝霞コース建設の際に中心的な役割を果たした。1928年に7代目の市左衛門となり、1934(昭和9)年から1939(昭和14)年にかけてはJGAの理事長、会長を歴任した。
 

領一郎の蒔いた種③ 三井栄子

 そして、もうひとり、領一郎からゴルフを授けられたのが、三井栄子(みつい・さきこ)である。領一郎から見れば、栄子は息子の結婚相手の姉という間柄になる。栄子は夫・弁蔵(後に軽井沢ゴルフ倶楽部南ケ丘新コース設立発起人)の三井物産ニューヨーク支店勤務が長く、当地で領一郎とも接する機会が多かったのだろう。領一郎に勧められて、1916(大正5)年頃、それまでのテニスからゴルフに転じたとされる。
 栄子は帰国後に、東京ゴルフ倶楽部や程ヶ谷カントリー倶楽部の会員となり、女性の関東関西対抗競技の関東代表のキャプテン格となった。ウォルター・ヘーゲンとラウンドした際はその腕前を賞賛されるなど、女性ゴルファーの先駆者として活躍した。1960(昭和35)年には、JGAにできた女子委員会の初代委員長になった。
 このように、井上準之助、森村開作、三井栄子……と数えれば、領一郎がニューヨークにありながら、日本のゴルフの黎明に果たした役割はまことに大きい。生糸を輸出して、ゴルフを輸入したと言ってもいいのではないだろうか。
 

日米親善の架け橋となる

 領一郎は80歳を越えても元気にゴルフを楽しんだ。そして、日米開戦が間近に迫る1939(昭和14)年に亡くなった。
 後日談になるが、領一郎の長女・美代と松方正義の九男・正熊との間にできた次女・春子は戦後、エドウィン・O・ライシャワーと結婚。日本生まれで親日家として知られるライシャワーはその後、駐日アメリカ大使となり、日米関係の重要人物となった。

 

文/河村盛文

 

参考文献
『絹と武士』 ハル・松方・ライシャワー著
『ゴルフと日本人』 田中義久著
『日本ゴルフ60年史新版』 摂津茂和著
『日本ゴルフ全集7 人物評伝編』 井上勝純著
『日本ゴルフ協会70年史』 日本ゴルフ協会70年史編纂委員会編
『東京ゴルフ倶楽部75年史』 
『JGA55年の歩み』 日本ゴルフ協会史料委員会編
森村商事株式会社 WEBサイト歴史コラム

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