HISTORY 競技
戦後初の日本オープンゴルフ選手権
戦後復興大会を林由郎が制する
戦後、日本オープンゴルフ選手権が再開されたのは終戦から5年を経た1950(昭和25)年のことだ。この前年、解散していた日本ゴルフ協会(JGA)が再建され、日本オープンなど主催競技復活の決議を受けての再開である。大会自体の開催は、実に9年ぶりのことだった。
会場は千葉県の我孫子GCである。戦争で荒廃していたコースを立て直し、18ホールプレー可能となったのが1948(昭和23)年。戦後、関東の多くの倶楽部がGHQに接収されていたが、我孫子ゴルフ倶楽部は免れていたため1949(昭和24)年の日本プロ戦後第1回大会の舞台となるなど復興において重要な役割を担った。1950年も日本オープンの後、中1日で日本プロを開催している。
戦後、トーナメントをリードした林由郎。
青木功、尾崎将司、福嶋晃子ら、数々の名選手を育てた名伯楽としても知られる
林由郎は中1日で日本プロにも優勝
戦後初の日本オープンは10月2、3日に72ホールストロークプレーで行われた。参加したアマチュアの中にはGHQ所属の選手が散見される。中には米国でプロとしてサム・スニードの助手を務めていたというS・ジェニングスという強者もいた。
初日を終えて73、69の142で回った島村祐正が首位に立った。2位には我孫子で生まれ育った我孫子ゴルフ倶楽部所属の林由郎が2打差につけた。
最終日は島村と林の争いとなった。終盤まで島村がリードを保っていたが最終ラウンド13番でバンカーショットをミスして林が追いつく。タイで迎えた17番パー4、島村が2オンしたのに対して林は2打目がバンカーにつかまった。我孫子GCの象徴でもある深いバンカーである。だが、我孫子で育った林は数えきれないほど深いバンカーから練習してきた。寄せる技も自信もある。渾身の1打はピンそばにピタリと止まった。
林がピンチを切り抜けた一方で、島村は短いパーパットを外して3パットボギー。ついに林がリードを奪った。そして最終ホールでこの1打差を守って林が日本オープン初優勝をつかみ取った。
林は前年の日本プロに続く優勝。さらには中1日で行われた日本プロで連覇を飾り、復興した日本プロゴルフ界のヒーローとなった。
ローアマチュアは宮本留吉らと並ぶ11位に入ったジェニングス。“元プロ”の実力を発揮した。
文/宮井善一
第15回日本オープンゴルフ選手権主な成績
順位 | 選手名 | 1R | 2R | 3R | 4R | Total |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 林 由郎(我孫子) | 72 | 72 | 74 | 70 | 288 |
2 | 島村 祐正(九州) | 73 | 69 | 75 | 72 | 289 |
3T | 井上 清次(相模) | 73 | 76 | 75 | 70 | 294 |
3T | 岩崎 正人(軽井沢) | 76 | 74 | 73 | 71 | 294 |
5 | 島田 二郎(程ヶ谷) | 76 | 75 | 71 | 74 | 296 |
6T | 石井 朝夫(松竹) | 73 | 78 | 75 | 72 | 298 |
6T | 中村 寅吉(仙石) | 77 | 74 | 75 | 72 | 298 |
8T | 孫士釣(=小野光一、程ヶ谷) | 70 | 75 | 79 | 76 | 300 |
8T | 陳 清水(川奈) | 74 | 73 | 76 | 77 | 300 |
8T | 石井 迪夫(川奈) | 76 | 72 | 78 | 74 | 300 |
参加者数 88名(アマ29名)
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