HISTORYに関する記事

HISTORY プロゴルファー

青木功がハワイアンオープン優勝

日本人プロ初の海外遠征も
ハワイアンオープン

 米ハワイ州オアフ島のワイアラエCCで行われてきたハワイアンオープン(現ソニーオープン・イン・ハワイ)は日本人選手と深い関わりがある大会だ。米ツアーに組み込まれたのは1965年であるが、第1回大会の開催は1928年にまでさかのぼる。翌1929年の第2回大会には宮本留吉と安田幸吉が参戦。これが、日本人プロ初の海外遠征だった。
 1970年代には毎年数人の日本人選手が挑み、1977年に村上隆が2位を記録。日本人選手による米ツアー制覇が夢物語ではないことを実感させてくれた。
 青木功がハワイアンオープンに初めて出向いたのは1974年のことだった。以降、1976年を除いて毎年参加。米ツアーメンバーとして初めてプレーした1981年には3位に食い込んでいる。
 1983年、不惑を迎えていた青木は9回目のハワイアンオープンに臨んだ。日本選手は杉原輝雄や倉本昌弘ら計6人が参戦していた。
 この年、青木は米ツアーで3戦を消化していたが下位に低迷。ハワイアンオープン初日もボギーが先行する苦しいスタートだった。9番パー5でようやく初バーディを奪うと、これが号砲となる。13番まで5連続バーディと畳みかけ、16、17番でもバーディを決めて6アンダーの66をマーク。首位タイという願ってもない出だしになった。
 2日目は70にとどまり、5打差の9位に後退。それでも翌日は9番と13番のパー5でイーグルを奪うなど65を叩き出し、通算15アンダーとしてバンス・ヘフナー、エド・フィオリと並ぶ首位に返り咲いた。
 最終日は下位からヘール・アーウィン、ベン・クレンショー、アンディ・ビーンら実力者が追い上げ、目まぐるしく順位が変わる混戦になった。その中から抜け出したのは青木と、最終組のひとつ前で回るジャック・レナーだった。
 両者は通算18アンダーで17番を終える。レナーは18番パー5で2オンに成功。イーグルは成らなかったが確実にバーディを奪い、通算19アンダーの1打差首位でホールアウトした。

 

ゴルフ史に残る18番、
青木の逆転イーグル

 最終組の青木は、右ラフからの2打目地点でレナーがイーグルチャンスにつけていると知った。何とか2打でグリーン近くまで持っていきたいと3番ウッドを強振すると大きく左へと曲がり、ボールはギャラリーに当たってラフで止まる。ピンまで128ヤードの地点だった。
 レナーに追いつくにはバーディが必要。だが、ピッチングウエッジを握った青木の3打目は、その上を行く結果になる。グリーンで弾んだボールがそのままカップに吸い込まれたのだ。
 ゴルフ史に残る奇跡の逆転イーグル。大歓声の中、青木が両手を上げ、満面の笑みでグリーンに向かって歩く。スコアカード提出所でうつろな表情を浮かべるレナーとはあまりにも対照的な結末だった。
 1983年2月13日、半世紀以上も前に日本人プロが初めての海外遠征に挑んだその場所で青木が日本人初の米ツアー制覇を成し遂げた。

 

文/宮井善一

 

逆転のイーグルを決めた直後の青木功

INDEX

Recommend

Most Viewed

Pickup Keyword

JGAゴルフ・ミュージアム 日本プロゴルフ殿堂