HISTORY ゴルフ場
日本初のパブリックコース
国際交流を目的として造られた
雲仙ゴルフ場
雲仙温泉は、加藤善左衛門が共同浴場を開いたのが始まりとされる。それ以前から霊山として知名度が高かった雲仙の地には、全国各地から湯治客が訪れたという。
その雲仙が日本初のゴルフリゾートとなったきっかけは、海外からの避暑客が増加したことだった。
長きにわたる鎖国の時代を終え、石炭や海産物などの輸出港として栄えた長崎を訪れる外国人は数多く、なかでも多数を占めたのが、中国の上海を経由してやってくる西洋人たちだった。
その西洋人たちに向けて書かれた「Unzen and round about it」と題するコラムが、1889年(明治22 年)、上海の新聞ノース・チャイナ・ヘラルド9月28日号に掲載される。観光地としての雲仙の魅力を紹介したこの記事を読んだ西洋人たちが、以降続々と雲仙を訪れることとなる。
外国人向けリゾートとして認知され始めた雲仙を、さらに発展させようと考えたのは長崎県であった。
温泉医学の権威として今も名を遺す、東京大学医学部名誉教授であったベルツ博士からの「温泉保養公園として整備すべきである」という進言を受け、雲仙に県立公園を設置する計画が進められ、1910年、県議会で決議される。
これに前後して雲仙に従来からある温泉旅館は一部が外国人用に改築され、純洋式ホテルやダンスホールなども建設された。そしてさらに、外国人誘致のためにゴルフ場を造ろうという計画が持ち上がる。
現存するコースとしては、神戸ゴルフ倶楽部(1903年創立)に次ぐ歴史を持つ雲仙ゴルフ場(当時9ホール・3200ヤード・ボギー39)が、日本最古の公営コースとして開業したのは1913年(大正2年)のことである。設計はB・オーレス。英国人の商社マンで、コース設計はまったくの素人だったという(バックランドとオーレス設計との記録もあり)。
園考治郎「雲仙岳:世界の楽園」(雲仙社、1926年)より転載
設立に貢献したのは、
トーマス・グラバーの息子・倉場富三郎
神戸、横屋、根岸など、日本にいくつかのコースは造られていたが、プレーするのは外国人ばかりという時代。日本人にとっては未知のものであったゴルフ場の造成に奔走したのは、長崎を舞台に国際交流に力を注いでいた倉場富三郎だった。
明治維新、そして日本の近代化に大きな影響を及ぼした貿易商、トーマス・グラバーと日本人の妻の間に生まれた富三郎は、学習院を退学して米国に留学。ペンシルベニア大学などで学び、1892年(明治25年)に帰国すると、貿易や商社の代理店として長崎、日本の近代化を支えたホーム・リンガー商会に入社。その後、日本国籍をとり「倉場富三郎」を名乗った。後年には長崎汽船漁業会社を設立。日本で初めて蒸気トロール船を導入、磯漁中心であった長崎の漁業を一新させる。現在の長崎の水産業の礎を築いたのは、富三郎だともいわれている。
1899年には、在留外国人と日本人の社交の場として長崎内外倶楽部を設立するなど、長崎を愛し、日本と諸外国の架け橋たらんとした倉場富三郎にとって、西洋の文化であるゴルフを日本に根付かせるきっかけのひとつとなった雲仙ゴルフ場の開場は、夢への大きな一歩だったに違いない。
外国人観光客誘致のために、長崎県営として開場した雲仙ゴルフ場。2006年からは民営化され、雲仙ゴルフ場株式会社がコースを運営している
INDEX