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石井 光次郎

ゴルフを守った“打毬起源説”

 

石井光次郎 
Mitsujiro Ishii
1889(明治22)- 1981(昭和56)

 「ゴルフは日本古来の由緒ある競技。起源は奈良朝に始まる打毬(たぎゅう、宮内庁の表記は『だきゅう』)なり」
 このゴルフ日本発祥説を1942(昭和17)年に唱えたのは、当時の日本ゴルフ協会の理事長を務めていた石井光次郎である。太平洋戦争の激化により、英語を用語とするゴルフは“敵性スポーツ”として排斥されようとしていた。この危機を救うべく石井は、軍部説得の材料に、この「ゴルフ打毬発祥説」を使ったのだという。
 奈良時代から宮中で行われていた打毬は、先の曲がった棒でホッケーのように毬(まり)を打つ祭事スポーツであった。大阪朝日新聞社で上映された飛鳥時代を紹介する文化映画でこの打毬を見た石井は、真偽はともかく、これを「ゴルフの起源」とすることで、スポーツ統制令によりゴルフのプレーが禁止されることを阻止したのである。

 

打毬の図。打毬に使われるスティック「毬杖」(ぎっちょう)とボール「毬子」(きゅうし)は「打毬楽」という雅楽の舞とともに、奈良春日大社に現存している

 

JGA理事長、会長として
戦後ゴルフの復興に貢献

 1889(明治22)年、福岡県久留米市に生まれた石井光次郎は、久留米商業学校(現久留米市立久留米商業高等学校)、神戸高等商業学校(現神戸大学)を経て、1914(大正3)年、東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部を卒業している。
 高等文官試験に合格し、東京高商を卒業後は警視庁警部・保安部交通課長となる。台湾総督府秘書課長兼外事課長などを経て1922年に東京朝日新聞社に入社、同社専務取締役となり、1940年から1942年には日本ゴルフ協会理事長を務めた。
 1946(昭和21)年に鳩山一郎の日本自由党から衆議院議員に初当選。1947年1月より5月まで第1次吉田内閣の商工大臣となるが、大臣就任中に公職追放となる。
 1950年10月に公職からの追放が解除され、1951年6月から1952年9月まで朝日放送社長を務め、1952年10月より1972年11月まで衆議院議員。運輸大臣、自由党幹事長、自民党総務会長などを歴任した。
 政治家としての激務の中、戦後は日本ゴルフ協会理事長(1949~1956)、会長(1957~1970)、日本体育協会会長(1962~1975)として、日本ゴルフの復興に尽力した。日本アマにも出場した経験を持つトップクラスのアマチュアゴルファーでもあった。 

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