PERSON ゴルフの先駆者
井上 準之助
東京ゴルフ倶楽部を創設した大蔵大臣
井上準之助
Junnosuke Inoue
1869(明治2)-1932(昭和7)
雑誌「GOLFDOM」1931(昭和6)年1月号に、東京ゴルフ倶楽部で催されたちょっと風変わりなコンペの結果が掲載されている。題して「金解禁一周年記念カップ」。日本アマチャンピオンにして川崎銀行副頭取の川崎肇、茨木カンツリー倶楽部理事長で第5代住友総理事の湯川寛吉ら、経済・金融界の有力者が顔をそろえた。その日の主役は東京ゴルフ倶楽部の創始者で、「金解禁」政策を実行した現職の大蔵大臣・井上準之助であっただろう。ただ、井上のプレーは振るわず、グロス121、HDCP24のネット97で最下位に終わっている。
ニューヨークでゴルフの魅力に目覚める
日本近現代史とゴルフ史の両方に名を残す井上準之助は大分県日田郡で造り酒屋を営む井上家の5人目の男の子として生まれた。長じて第一高等中学校、のちの一高を受験したが失敗、仙台の第二高等中学校に入学した。そして東京帝国大学法科に進み、1896(明治29)年日本銀行に入行した。日銀では仕事に没頭し、10年後には37歳で職員の筆頭である営業局長となった。周囲も自らも次は理事と考えたであろう。
だが、井上は営業局長在任中、財界の大物と次々に衝突を起こした。その結果、当時の総裁・松尾臣善からニューヨーク勤務を命ぜられた。肩書きは代理店監督役であったが、実質はところ払いであった。
ところが、この左遷が井上にゴルフとの出会いをもたらした。当時、ニューヨークでは日米生糸貿易を開拓した新井領一郎が、在留邦人に誰彼となくゴルフというものの存在を教えてまわっていた。気鬱な日々を過ごし、単身赴任の無聊をかこっていた井上はやがて、ゴルフの魅力と効能に目覚めた。どんなに打っても球は動かず不愉快な日もあるが、広々した野原を走りまわり、疲れて何も考えずに眠るのがよいと心得た。
東京ゴルフ倶楽部の創立
1911(明治44)年、井上は3年ぶりに帰国、外国為替を取り扱う政府系の横浜正金銀行の副頭取に就任した。当時、東京近郊には横浜の根岸競馬場のトラック内に9ホールのゴルフコースがあったが、これは在留外国人たちが運営していたので居心地が悪い。そこで、井上は日本人の手でゴルフ場を造ることを企てた。
井上は滞米経験の長い実業家・樺山愛輔たちとともに、東京ゴルフアソシエーションの発起人となり、1913年には30人の第1回出資者が出そろった。この中には、井上にニューヨークでゴルフを吹き込んだ新井領一郎や、時期は違うがニューヨークで新井領一郎に手ほどきを受けた森村開作(後に7代目市左衛門を襲名、JGA初代会長)たちも含まれている。第2回出資者には、樺山に誘われた川崎肇も名前を連ねた。この時点で川崎はゴルフ未経験であったが、練習に励んで日本アマチャンピオンとなっている。川崎の例のように、初期はゴルフ未経験に関わらず入会した者も多かった。
用地は当時、玉川電気鉄道が開通したばかりの駒沢村に定まり、地主たちとの借地交渉がまとまった。東京ゴルフアソシエーションは任意団体であったから契約を結ぶわけにいかず、井上が個人で契約することになった。調印は地主たちの希望で、麻布三河台町の井上の自宅で行われた。これは地主たちが井上の自宅を検分することで信用を確かめたのだろう。信用を得る上では、井上の自宅が大邸宅でよかった、とは大谷光明の後日の感想である。この他、井上は別途倶楽部基金で神戸市の水道公債を購入、年6分の利子で借地代を払えるよう体制を整えた。自ら率先して動き、万事ぬかりない仕上げであった。
こうして、東京ゴルフ倶楽部は翌1914(大正3)年に開場した。新しい会員が続々と入会、井上信、川崎肇、大谷光明ら日本アマチャンピオンを輩出した。1922年、来日した英国皇太子と摂政宮(後の昭和天皇)のダブルスマッチが行われた。1924年にはクラブハウスでJGAの創立総会が開かれた。まさに日本のゴルフ黎明期の舞台となった。その後も朝霞、狭山と場所は移転しながら、日本オープンの開催などを通じ、ゴルフ界の中心的な役割を担ってきた。日本人による日本人のための倶楽部設立を推進した井上の功績と言える。
井上準之助は、東京帝国大学卒業後、1896年日本銀行に入行。1897年に英国・ベルギーに留学。帰国後、大阪支店長・営業局長。横浜正金銀行頭取を経て1919年に日銀総裁に就任。大蔵大臣、貴族院議員、民政党総務などを歴任した
金融マン、政治家、そしてゴルファー
一方、井上の公務の方は多忙を極めていた。1913(大正2)年に横浜正金銀行頭取、1919年には日本銀行総裁、1923年関東大震災発生の翌日に大蔵大臣就任。震災に伴う混乱を防ぐため、井上は直ちにモラトリアム(手形の決済、預金の払い戻しなどの一時的猶予)を実施した。1929(昭和4)年には浜口雄幸内閣の大蔵大臣に就任、このときは浜口に請われ、金輸出入の解禁、金本位制への復帰を実行する目的を持った入閣だった。
では、ゴルフから遠ざかったかと言えば、そんな様子はない。忙しければこそ、いっそうゴルフが必要になるというのが井上の信条だった。日曜は自宅にいれば面会攻めになる、そこで朝早く家を出てゴルフ場通いを励行した。
冒頭の「金解禁一周年記念カップ」にしても、その2カ月前、浜口首相が東京駅で撃たれ入院中という時期に開催されたものだ。金解禁政策の継続をめぐっても世論は分かれていた。しかし、井上は臆せず会を開いた。こういうときこそ、という井上のゴルフ観でもあったのだろう。この時期まで井上は木製シャフトのクラブを長く愛用していたが、勧める人がいてその年アメリカにスチールシャフトのセットを発注した。
浜口首相は銃撃で受けた傷の回復が遅れ辞任の後、8月に死去した。12月には後継の若槻内閣総辞職。翌1932年2月9日、演説会の会場に到着した井上に向かって至近距離から拳銃3発が放たれ、命中した。信念を持った金融マン、政治家の非業の死であった。実行犯は当初単独とみなされたが、後に血盟団という組織の犯罪だと判明した。血盟団は政財界の要人の中から反軍的とみなした者を暗殺のリストに並べていたのだった。こうして、時代は暗い坂をくだってゆく。
井上準之助葬儀の日、東京ゴルフ倶楽部の創始者にして熱心な日曜ゴルファーの棺には、前の年に注文しアメリカから届いたばかりのスチールシャフトのドライバーが納められたという。
文/河村盛文
参考文献:
「高橋是清と井上準之助」鈴木隆著
「男子の本懐」城山三郎著
「血族が語る昭和巨人伝」文藝春秋編
「東京ゴルフ倶楽部75年史」
「日本ゴルフ全集7・人物評伝編」井上勝純著
「GOLFDOM」1931年1月号
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