PERSON ゴルフの先駆者
井上 信
日本人初の日本アマ・チャンピオン
井上 信
Shin Inoue
1885(明治18)~1968(昭和43)
井上信は1885年生まれ、東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業し、三井物産に入社、ニューヨーク支店在勤中にゴルフを覚えた。ニューヨーク近郊のホワイトビーチズゴルフクラブに入会し、クラブ選手権を2連覇した。そして、1918年に帰国した井上は東京ゴルフ倶楽部(駒沢コース)に入会し、その年の9月駒沢で開催された日本アマゴルフ選手権に出場した。
この年の日本アマは節目の大会であった。というのは、それまでの日本アマは1907年の創設以来11年間、神戸ゴルフ倶楽部とNRCGA(ニッポン・レース・クラブ・ゴルフィング・アソシエーション)根岸コースとの交互開催であった。つまり、在留外国人の手で作られたコースで開催、参加者も外国人、優勝者も外国人であったのだ。1916年にようやく一色虎児が日本人初出場、そして日本人が作った駒沢コースでの開催が1918年に実現した。大会は9月21日、9ホールのコースを4回廻る36ホール・ストロークプレーで行われ、井上が156打で優勝、2打差の2位が川崎肇、5位まで日本人選手が占める結果であった。
この優勝で日本のゴルフ史に名前を残すことになった井上は、ゴルフの上達法を問われ「一にもプラクチス、二にもプラクチス、三にもプラクチス」と力強く宣言したという。
エチケットの鬼軍曹
その後は競技よりむしろ、1920年代にかけて三つのコースの創設に関わり、大きな貢献を果たすことになる。
初めのひとつが、1922年に創立された程ヶ谷カントリー倶楽部である。程ヶ谷は東京ゴルフ倶楽部駒沢コースの借地の悩みに端を発し計画されたものだが、井上はコース造成に尽力し、翌年、18ホールの開場とともに名誉書記に就任した。開場当時は初心者の多かった倶楽部の中でエチケットやマナーを徹底する役割を担った。倶楽部の重鎮で、後にJGAの理事長も務めた石井光次郎は50年後にこう振り返った。「程ヶ谷が、いくらか昔のクラブらしい匂いを今に残しておるのは創業時代ウンとがんばった井上信君の功績である…社会的地位がどうあろうと、クラブでは一会員なりときめて、遠慮なくやっつけた。正に鬼軍曹であった」。井上本人は「ルールの反則にはペナルティーがあるが、エティケットの反則にはペナルティーがない。それだけにエティケットを守ることは一層必要だ」としている。1924年に七つの倶楽部の代表が集まり、JGAを創立した際には、程ヶ谷の代表として井上が会合に参加した。
茨木CC、コース建設へのアドバイス
次に、1923年に大阪で茨木カンツリー倶楽部が発足した際には、コースの設計者としてダビッド・フードを紹介している。フードはスコットランド生まれのプロで、マニラにいるとき三井物産マニラ支店の船津完一に井上信への紹介を依頼し、来日したのだ。茨木の湯川寛吉理事長が、コース建設のアドバイスを求めた際に井上は極めて具体的で詳細な返信を送った。この便箋10枚に及ぶ書状が100年後の今日まで茨木に伝わっている。
それによると、井上は「昨今の海外のchampion courseは最近あまりLong holeに重きを置かず、Good two shots holeを種々地形を利用して沢山作るのを希望する傾向だ」としている。さらに、「1番ホールはStart時の混雑緩和のため、できるだけcommonでeasyなものでよろしい。一方、18番ホールはMatchをdecideすることが多いので、やや長めに作り置き、すべてのplayerにeven chanceを与えたい」とコース運営や予算、プレーヤーの満足度なども考えた内容となっている。茨木の現・東コースは1925年に開場したが、フードの原設計はこれら井上信のアドバイスをよく取り入れたかのように思える。
霞ヶ関CC東コースの設計
三つめが霞ヶ関カンツリー倶楽部東コースだ。このコースの計画当初から井上は藤田欽哉の相談を受けていた。1929年2月の発起人会で、井上は名誉会員となり、赤星四郎とともに顧問となった。さらに同月28日のレイアウトに関する合議の席でおおよそのルーティングがまとまり、各ホールは藤田、井上、赤星四郎、石井光次郎、清水揚之助の5人で分担することが決まった。井上が担当したのは1、2、18番である。1番と18番を担当したのは、先に茨木カンツリー倶楽部にアドバイスをした井上の考えを反映するためだったのだろうか。
「ゴルフドム」(1929年4月号)に掲載された霞ヶ関CC東コースの図面。1、2,18番が井上信の設計。霞ヶ関CC東コースはのちにC.H.アリソン(1931年)、トム&ローガン・ファジオ(2016年)に改造され、2021年の東京オリンピック、ゴルフ競技の会場となった
また、コース造成中の7月、井上は藤田の依頼を受けて入会者たちにゴルフ全般についての連続4回の講演を行った。井上は「fellowshipということはgood fellowから来ている言葉だと思う。みなに迷惑をかけず、みんなでゴルフと倶楽部生活を楽しむように気をくばり、行動することだ」と記した。この精神を関わった倶楽部に根付かせたかったのだろう。
このように、日本のゴルフ黎明期に貢献をした井上だが、戦後は病気もあってゴルフから遠ざかった。ホームコースの程ヶ谷に次のような原稿を寄せている。「戦争後ゴルフをやらなくても仲々ゴルフのことを思い切れずに困った。ゴルフを忘れるのに、十余年もかかった。」ではなぜやめたのか?「正直なところを申せばまけるのがいやだからだ。敬老会のトーナメントに出ないかといつも御親切にいっていただいているが、出ないのはゴルフが下手になってまけるのがいやだからだ。金言にもあるように『獅子はネズミをとるのに全力を尽す』ということだが、いい加減のことは絶対禁物というのが自分の信条だ。」と。ゴルフへの深くて複雑な愛着を感じさせる、最後の言葉であった。
文/河村盛文
参考文献:
「外人だけの選手権」摂津茂和著
「日本ゴルフ全集7・人物評伝編」井上勝純編
程ヶ谷カントリー倶楽部40年史、50年史
茨木カンツリー倶楽部100周年記念誌
「ゴルフリンク建設書状」茨木カンツリー倶楽部蔵
霞ヶ関カンツリー倶楽部25年史
INDEX