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PERSON 川奈ホテル

大倉 喜七郎

“世界の川奈”を創ったバロン

 

大倉喜七郎
Kishichiro Okura
1882(明治15)-1963(昭和38)

 川奈ホテルゴルフコース富士コースは様々な「世界のトップ100コース」にランクインする、日本を代表するコースである。コースは伊豆半島小室山から流れ出た溶岩台地の上にあり、富士山と相模湾を望む圧倒的なロケーションが展開する。C.H.アリソンの設計で知られるが、このコースが出来上がり現在に至るには、バロン・大倉喜七郎をめぐるいくつかの偶然が重なりあっていた。
 大倉喜七郎の父・喜八郎は越後新発田から江戸に出て鉄砲店大倉屋を開業、これを足がかりに陸軍御用達商人となり、一代で大倉財閥を作り上げた明治の大立者である。喜七郎は喜八郎の長男として生まれ、英・ケンブリッジ大学トリニティカレッジに留学した。英国留学は8年にも及んだ。喜七郎は留学中に友人所有の「カントリーエステイト」、田舎の邸宅に招かれ、滞在する機会を得た。その思い出をこう語っている。「その田園生活には全く目を見はる思いがしました。広大な緑の牧場、放牧された馬や牛、羊などがのんびり草をはみ、樹々には小鳥が囀るというまことに平和そのものの情景にふれ、ほんとうに心が洗われる思いがしたものであります。」このことが、後に川奈の構想につながるのである。
 父が91歳まで隠居せず財閥のトップとして君臨したこともあってか、イギリスから帰国した喜七郎はさまざまな文化活動の支援にいそしむ。喜七郎は留学中、自動車レースにも出場したほどの車好きであるが、1910年に日本初の自動車団体「日本自動車倶楽部」(現在NPO)を設立した。また1924年、資金を用意して日本棋院を創立した(現在・公益財団法人)。1930年には横山大観を始めとする芸術使節団と作品173点をローマに送り込み大がかりな日本画展を開催した。渡航と滞在は喜七郎持ち、作品の多くは自ら理事長を務める「大倉集古館」(現在・公益財団法人)に収蔵した。1934年には、人気テナー歌手・藤原義江を応援してオペラの歌劇団を作らせた。その他、日本ペン倶楽部への支援など枚挙に暇がないが、喜七郎の思いとしては「日本文化を広く世界に紹介したい」という点で、筋が通っていた。父が亡くなったことにより襲爵した喜七郎はいつしか、バロンと呼ばれる存在となる。

 

大島コース開場と、アリソンの来日

昭和11年当時の川奈

 

 さて、1920年喜七郎は体調を崩し、伊豆に転地療養をした。その際、伊豆半島を歩き回っているうちに留学中に好んだ田園生活の良さがよみがえり、「背面に天城を背負い、眼前の相模湾を池とし、大島、伊豆七島を池中の築山とし、房総半島、三浦半島、真鶴から熱海、その向こうに箱根連山から冨士を望み得るような構想で」、川奈を「発見」したのだ(摂津茂和著『世界ゴルフ大観・日本編』より1959年12月6日付喜七郎の手紙)。1926年には、一帯を牧場にして馬を乗り回すつもりで買収することに決め、買収と整備を配下の3人に任せた。ところが、外側は馬場、内側にゴルフ場を造る案を勧められ「渋ったけれど、無理にその案を押しつけられて『よかろう』っていったらみんなゴルフ場にしちゃった」という。このあたり、湯水のように資金を使えるバロンはまったく鷹揚である。もっとも、大島コースの設計を引き受けた大谷光明はその経緯を「この土地にゴルフ場ができれば、その地方の開発になり、その村の発展になると思う、という喜七郎氏の高潔な心に感じ入り」としている。
 ともあれ、大島コースは1928年に開場し好評を集めた。さっそくラウンドした髙畑誠一は「風景絶佳の地に理想的の36ホールスを造って遠く外人を惹き寄せ、兼ねて内地ゴルファーの享楽に提供しようとの大倉男爵の篤志と熱心なる大谷氏の設計と相まって実現されたのであるから規模なかなか豪壮である。」と語った。しかも、髙畑はこの秋(1929年)には富士コースも出来上がると伝えたのである。しかし、実際に富士コースが開業したのはそれから7年後であった。この7年間に何があったのだろうか。
 時あたかも、外貨獲得のため国内の景勝地を開発整備し、訪日客を誘致する国際観光政策が実施されようとしていた。1930年、鉄道大臣の諮問機関として国際観光委員会が設置され、喜七郎は帝国ホテル会長として、その委員に選ばれた。かねて、「カントリーエステイト」への思いを抱いていた喜七郎にとっては、まさに時代の好機を得たと言うべきだろう。信州上高地の案件では、道路整備やホテルの立地、設計などについて積極的に発言し、ホテルは早くも1933年10月に開業を迎えた。国策であるので、形式上、県が事業主体となり大蔵省が建設資金の相当部分を長期低利で融資したが、運営はすべて帝国ホテルに任され、ホテルの建設も大倉土木が担当した。この日本アルプスの山岳美を世界にアピールする「上高地帝国ホテル」に続き、1937年には同じく喜七郎の主導により、温泉を備えたスキーリゾート、「赤倉観光ホテル」が新潟県に開業した。
 そうした時流もあって、帝国ホテルでは、川奈・富士コースの新設とホテルの建設が事業として有望視されることとなった。大谷光明によると、喜七郎はもともと選手権コース一つと一般向けのコース一つ、それにホテルの建設を構想していたという。大島コースの好評を受けて、富士コースは監修・大谷光明、設計・赤星六郎の顔ぶれで造成が始まり、一部は出来上がりつつあった。
 そこにもうひとつの偶然が重なる。1930年末、イギリス人の設計家、C.H.アリソンが東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの設計のため、来日したのだ。アリソンは、喜七郎の執務室もある帝国ホテルに逗留していた。年齢は一つ違い、喜七郎がケンブリッジに在学中はアリソンもオックスフォードに学んでいたことになる。大谷光明の薦めもあったのだろう、喜七郎はアリソンに川奈について意見を求めることにした。
 アリソンは関西に赴く途中、川奈を訪れ、大谷光明、赤星六郎らとともに用地を見て廻った。雄大なロケーションはアリソンの想像を超えていた。「景色に幻惑され正しき設計を誤る。印象が薄らぐまでに3日間はかかる」と述べたという。実際、アリソンは熟慮を重ねた。設計図が送られてきたのは帰国後、デトロイトの事務所からであった。こうして、富士コースはアリソンの設計を採用することになる。
 ところが、喜七郎と川奈は富士コース完成前の1933年に思わぬ事態に見舞われる。当時の静岡県知事が川奈の入場者に対して、1人1円の奢侈税を課する案を打ち出したのだ。これに対し、喜七郎は猛反発、ゴルフ場を閉鎖することを決定する。知事は「金持ちのわがままと申し上げたい」としたが、喜七郎は「川奈はゴルフ好きで開発したのではない。ゴルフは頭脳労働者の疲労回復に絶好と信じたのである。同時に、国際観光客を誘致し地元の振興に役立てるため、赤字を補いながら運営してきたのだ」として、実際、1934年2月に大島コースを閉鎖してしまった。閉鎖は数ヶ月に及んだが、打開を図る梃子になったのが先の国際観光政策である。
 鉄道省国際観光局の奔走もあり、大倉グループの手により県の名義で国の融資を受け、ホテルと富士コース、プールなどを建設する案がまとまった。上高地と同じスキームである。これに伴い課税案も撤回され、大島コースは同年6月に営業が再開された。そして、2年後の1936年12月に川奈ホテルと富士コースが開業した。喜七郎の川奈への愛着は深まり、自らの別荘、サロンとして多くの客を招き、もてなした。政治家で同年代の友人、鳩山一郎は喜七郎に「君が生涯にやったことといったら川奈のゴルフ場と日本棋院を作ったことだけじゃないか。」と言ったが、これはほめ言葉だろう。
 しかし、富士コース開業のわずか10年後、喜七郎は敗戦により海外の資産のすべてを失い、また財閥解体で帝国ホテルのオーナーの地位も奪われてしまう。しかし、川奈だけは時の持株会社整理委員長・野田岩次郎の計らいで喜七郎の手に残された。野田は川奈が一般競売にかけられることによってばらばらになることを怖れたという。野田は後に、喜七郎が旧大倉財閥の邸宅跡地に新たに企てた「ホテルオークラ」の立ち上げを進めることになる。
 こうした戦渦と曲折を経て、1962年第3回世界アマチュアゴルフ選手権大会が川奈・富士コースで開催された。第1回がセントアンドリュース・オールドコース、第2回がアメリカの名門・メリオンGC、その次の開催地に川奈が選ばれたのだ。この開催によって、川奈は世界の注目を大いに集め高い評価を得ることになる。奇しくも世界アマの前夜祭は「日本の美で海外のゲストをもてなす」ことをめざして同じ年に開業した、ホテルオークラで催された。カントリーエステイトへの思い、日本の良いところを広く世界に紹介したい―――バロン・大倉喜七郎の願いが豊かな実を結んだと言えるだろう。喜七郎はこの翌年、80歳で亡くなった。 

 

文/河村盛文

 

参考文献
「近代日本の国際リゾート」砂本文彦著
「男爵」大倉雄二著
「破天荒<明治留学生>列伝」小山謄著
「日本ゴルフ全集7・人物評伝編」井上勝純編
「川奈と大倉喜七郎氏」摂津茂和著
「帝国ホテル物語」武内孝夫著
「CHOICE」ゴルフダイジェスト社、2021年9月号「アリソンさんがやってきた。」

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