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PERSON ゴルフの先駆者

大谷 光明

日本ゴルフの礎を築いた
名オーガナイザー

 

大谷光明
Koumyou Ohtani
1885(明治18)-1961(昭和36) 

 大谷光明の前半生はほぼ決められた枠の中にあったと言ってよい。1885(明治18)年、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の第21世法主光尊の三男として生まれた。1902年に9歳年上の長兄・光瑞が22世法主になると、大谷はその後継者の地位に指名され、布教のために満州、北海道、樺太などに赴いた。1907年から3年間、イギリスに留学、ケンブリッジに学んだ。このときゴルフやラグビーに親しんだ。
 イギリスから京都に戻ると、1910年、公爵・九条道孝の5女、紝子(きぬこ)と結婚した。また、日本人の入会を厳選していた神戸ゴルフ倶楽部に入会した。入会は南郷三郎や廣岡久右衛門たちより早かった。
 ただし、この時期、ゴルフではなくラグビーの方で大谷の名前が残っている。当時、京都は学生ラグビーの揺籃期だったが、大谷は平安中学の卒業生、生徒たちで錦華殿クラブというチームを作り、白のオープンカー2台に分乗して京都一中(現・洛北高校)のグラウンドに乗り込んだというのだ。のみならず、郊外に芝生の専用グラウンドまで作ってしまった。プレーヤーとしてはスリークォーターバックで出場した。ただし、「足は速いがプレーはゴルフほどではなかった」とラグビー仲間に評されている。1915年には陸上競技大会の100ヤード走に偽名で出場、見事予選を突破したが、正体がばれて本山から大目玉を食らった。
 また、1910年、凍結した諏訪湖で催されたスケート大会に、大谷は最新式のチューブラースケートを持って現れた。当時はみな下駄にブレードを取り付けた通称‘下駄スケート’で滑っていたから、たいへん喜ばれた。このことは、日本のスケート発達史に記されている。
 このように、西本願寺の肩書きを背負っていた頃から、新しいものを伝える、チームを作る、環境を整備する、後の名オーガナイザー・大谷光明のプロトタイプが見えていた。

 

上京、そして東京ゴルフ倶楽部入会

 大谷に重大な転機が訪れたのは1914(大正3)年のことだ。兄で法主の光瑞は西域の仏跡調査のため、いわゆる大谷探検隊を三次にわたって派遣するなど、スケールの大きな人であった。しかし、教団の財政行き詰まりなどの責任をとって辞任した。大谷も兄に従う形で後継者の座を降りた。将来は白紙となり、京都を去って上京する。
 そして、翌1915年、開場したばかりの東京ゴルフ倶楽部駒沢コースを訪れた。所在なく佇んでいた大谷にメンバーの高木喜寛が声をかけた。これがきっかけで、大谷は東京ゴルフ倶楽部への入会がかなった。大谷は後に高木に対し、「あなたが声をかけてくれてうれしかった。地獄に佛でした」と感謝した。高木が「佛はあなたの専門でしょう」と返したとは、よくできた話である。
 それから7年後の1922年4月19日、来日した英国皇太子(プリンスオブウェールズ、後のエドワード8世)と摂政宮(後の昭和天皇)の親善ゴルフダブルスマッチが駒沢コースで開催された。英国皇太子とペアを組んだのはハルゼー侍従、摂政宮は大谷とペアを組んだ。大谷の妻・紝子の姉は大正天皇の皇后であったし、大谷はしばしば赤坂離宮などで摂政宮のコーチを務めていたから、これは順当な人選と言える。9ホールのダブルスの結果は、1アップで英国組の勝利。後日、大谷は「遠来の賓客を迎えて1ダウンという花も実もある負け方をしたところに、私の人知れぬ苦労があったのだ」とコメントした。
 同じ年の10月、神戸ゴルフ倶楽部で開催された日本アマで大谷はチャンピオンとなった。それまでも惜敗が続いていたから待望の優勝だった。

 

1924年からコミッティー、1926〜1930年にチェアマン、1934〜1936年に副会長、1937〜1939年に理事長、1940〜1942年に会長と要職を歴任し、日本ゴルフ協会(JGA)を長きにわたり牽引し続けた大谷光明

 

JGA創立を主導 

 2年後の1924(大正13)年10月17日の日本アマ開催当日、駒沢のクラブハウスに東西7クラブの代表が集まりジャパン・ゴルフ・アソシエーション(JGA、のちの日本ゴルフ協会)の設立が決議された。大谷はもともと日本人の手で組織を作りたいと考え、この会議にも東京ゴルフ倶楽部の代表として参加していた。JGAはさっそく日本アマを自らの主催競技とし、1927年には日本オープンゴルフ選手権を創始した。
 大谷がJGAのコミッティーとして力を注いだのが、日本版のルールブックの制定と普及である。宮本留吉によると「そのころのルールブックというのは、英国からもらってきたふすま一枚くらいの大きな紙で、そこに細かくたくさん印刷されたものがはりつけてある」という態だったから、ルールの邦文化が急務となっていた。ただし、R&Aのルールブックを直訳しただけでは理解に苦しみ、判例や註釈がなければ実用には供せない。大谷の研究と苦心の末に、ようやく1935年、JGAによって邦文のゴルフ競技規則が制定された。さまざまな疑問や意見があるのを予想して、大谷は同年「ゴルフ規則の註釈と判例」を著したが、その序文で大谷は、ゴルフルールとは「プレイヤー自身の良心とそのフェアプレーに総てを全托」しているとする。このため「融通性に富む長所を有する一面に、法の不備を伴う短所も免れ得ない」と考え、「難物はゴルフ規則であろう、その悪質たるやあるいはバンカー以上との評もある」と結んだ。
 大谷は1926年にはチェアマンとなり、1937年に森村市左衛門を継いでJGA理事長、1940年に同じく会長に就任した。
 一方、1927年、京都では大谷の長男・光照が13年間空位であった法主の座についていた。大谷は教団幹部から「当門さま(光照)が立派に大成されるようにと、眼に見えぬところでの心配りには尋常ならぬものがあった」と尊敬を集めた。また、「人の長所を十分に生かすよう、また短所を自覚せしめて奮起せしむるよう」人材を活用した、とも言われている。この辺り、組織と人の動かし方を心得た大谷の様子がうかがえる。

 

設計家としての大谷光明

大谷光明設計の川奈ホテルゴルフコース大島コース6番ホール

 大谷はゴルフコースの設計においても、後世に仕事を残している。1928(昭和3)年には静岡県川奈に大谷設計の大島コースが開場。これは大倉財閥の大倉喜七郎の依頼によるもので、高畑誠一は「風景絶佳の地に理想的の36ホールスを造って遠く外人を惹き寄せ、兼ねて内地ゴルファーの享楽に提供しようとの大倉男爵の篤志と熱心なる大谷氏の設計と相まって実現されたのであるから規模なかなか豪壮である」と評した。大島コースには各ホールにニックネームが付けられている。‘HODOGAYA’や‘OHTANI’S SMILE’などがあり、最終ホールは‘WIFE&DRINK’。ゴルフが終われば、奥様とアルコールが待っているというわけだ。大谷はさらに赤星六郎とともに川奈の富士コースの設計にも着手したが、これは結局C.H.アリソンの設計で完成し、日本を代表するコースと評価されるに至った。東京ゴルフ倶楽部・狭山コースも大谷の設計によるものだ。もっとも、ここは当初秩父カントリー倶楽部の18ホール増設コースとして大谷の設計で開発が始まった。ところが、1940年に東京ゴルフ倶楽部は朝霞コースが陸軍に買収されることになり、倶楽部の存続自体が危ぶまれる事態となった。そこで、大谷が懸け橋になる形で両倶楽部が合併し、工事中の秩父のコースは東京ゴルフ倶楽部の朝霞に代わる新コースとして開場することになったのだ。コースの設計者として大谷は「(当初、秩父CCの新コースとして計画されたので)建設資金の貧弱という難点が加わったために、ますます出来の悪い作品となり、今少し広げたい区域も手に入れることが出来なかったし、残しておきたかった樹林も切り払われてしまって、事と志が違った点があちこちにある」と詫びを入れている。
 しかし、これは川奈などでアリソンの仕事ぶりに触れた後、名古屋ゴルフ倶楽部・和合コースをも手がけた大谷の「足らざるを知る」故の心境ではなかったか。80余年が経過し、現在の東京ゴルフ倶楽部は大きな立木に彩られた庭園風の美しさを持つと評価されている。また、この大谷光明設計のコースでの日本オープン開催も、2024年を含め実に5回を数える。そのことが、日本のゴルフの礎を築いた大谷への最もよき供養と言えるだろう。

 

文/河村盛文

 

 参考文献:
「近代ラグビー百年:香山蕃追悼」池口康雄著
「獰猛の意気」秦乾太郎著、京一中洛北高校同窓会編
「日本のスケート発達史」日本スケート連盟編
「日本ゴルフ全集7・人物評伝編」井上勝純著
「東京ゴルフ倶楽部75年史」
雑誌「大乗」1961年7月号

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