PERSON ゴルフの先駆者
倉場 富三郎
日本初の公営コース、
雲仙ゴルフ場を造った男
現存するコースとしては、神戸ゴルフ倶楽部(1903年設立)に次ぐ歴史を持つ雲仙ゴルフ場が、日本最古の公営コースとして開場したのは1913年(大正2年)のことである。
日本にいくつかのコースは造られていたが、プレーするのは外国人ばかりという時代。日本人にとっては未知のものであったゴルフ場の造成に奔走したのは、長崎を舞台に国際交流に力を注いでいた、倉場富三郎だった。
明治維新、そして日本の近代化に大きな影響を及ぼした貿易商、トーマス・グラバーと日本人の妻の間に生まれた富三郎は、学習院で学んだ後、米国に留学。
ペンシルバニア大学などで生物学を学び、1892年(明治25年)に帰国、貿易や商社の代理店として長崎、日本の近代化を支えたホーム・リンガー商会に入社している。その後、日本国籍をとり「倉場富三郎」を名乗った。
後年には長崎汽船漁業会社を設立。日本で初めて蒸気トロール船を導入、磯漁中心であった長崎の漁業を一新させる。現在の長崎の水産業の礎を築いたのは、富三郎だともいわれている。
雲仙ゴルフ場のクラブハウスに飾られた
倉場富三郎のポートレート
倉場富三郎
Tomisaburo Kuraba
1871(明治4)-1945(昭和20)
日本と諸外国の架け橋に
1899年には、在留外国人と日本人の社交の場として長崎内外倶楽部を設立するなど、長崎を愛し、日本と諸外国の架け橋たらんとした倉場富三郎にとって、西洋の文化であるゴルフを日本に根付かせるきっかけのひとつとなった雲仙ゴルフ場(当時は雲仙ゴルフスプリングス)の開場は、夢へとつづく、道程の一つだったに違いない。
数々の偉業を成し遂げた富三郎だったが、その晩年は恵まれたものではなかった。太平洋戦争が始まる2年前の1939年、富三郎は父トーマス・グラバーから受け継いだ「グラバー邸」を、当時の三菱重工長崎造船所へ売却。丘の麓へと引っ越す。突然の引っ越しの原因は、「グラバー邸」から戦艦を建造中の長崎造船所が一望できたため、とも言われている。
世界と日本の交流に奔走し、その架け橋たらんとした富三郎を待っていたのは、スパイの疑いをかけられて生きるという、耐え難い日々だった。その苦悩からか、長崎に原爆が投下された2週間後、富三郎は自らの命を絶っている。
富三郎が残した多額の遺産は、復興のために使ってほしいという遺言により、愛する長崎へと寄贈された。
長崎県営のパブリックコースとして開場した雲仙ゴルフ場。現在は民営となったが、パブリックコースとして、当時の伝統を今に伝えている
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