PERSON ゴルフ史家
西村 貫一
「日本のゴルフ史」を遺した
ゴルフ文献収集家
西村貫一
Kanichi Nishimura
1892(明治25)-1960(昭和35)
外国航路の船客ための特別な格式を備えた神戸の外航旅館のなかでも、最も高い格式を誇った「西村旅館」の長男として1892(明治25)年に生まれたが、3歳で両親と死別し、乳母や女中に育てられた。神戸小学校から関西学院に入学したが、中学5年の時に担任の教師と喧嘩して放校となり、東京の麻布中学に転校したという。
1914(大正3)年、東京府立第三高女(現・都立駒場高校)に在学していた‘’まさ‘’と結婚。貫一は麻布中学を卒業して神戸に帰るも旅館を継ぐ気はなく、たびたび外遊。1921年には夫婦で1年間、欧米各国を巡る旅に出掛けている。
外遊でゴルフと出合った貫一は、1916年(大正5年)頃からゴルフを始め、1919年に神戸ゴルフ倶楽部に入会。その後、鳴尾ゴルフ倶楽部の会員となる。日本最初のプロゴルファー福井覚治の指導を受け、1924年(大正13年)には鳴尾ゴルフ倶楽部のハンディ5であったという記録が残されている。また、1925年には開場したばかりの茨木カンツリー倶楽部のクラブチャンピオンとなっている。
家業を顧みずゴルフに勤しんだ貫一だが、1930年(昭和5年)にはゴルフをふっつりと止めてしまう。神戸ゴルフ倶楽部の60年史には「おやじがゴルフをコツ然としてやめましたが、そのとき僕がどうして止めたのか聞くと、俺は負けるのがいややからや、こんどは記録を残してやろうと思って『日本のゴルフ史』を作ったんやといっていました」(西村貫一次男、雅司氏談)との記述が残されている。この言葉もひとつの真実ではあろうが、「一つのことをしている間は他のことをしたらあかん」を信条としていた貫一が、1929年に始まった世界大恐慌のあおりを受けて没落寸前となった西村旅館を再建するためにゴルフを止めたというのもまた、真実なのであろう。
貫一がゴルフを止めた1930年に刊行した『日本のゴルフ史』は、ゴルフ初期の記録を、貫一自身が克明に取材し記述した日本初のゴルフ史書である。「記録を残してやろう」という貫一の決断がなければ、貴重な記録の数々は四散してしまったことだろう。
また、西村貫一はゴルフ文献の収集家としても有名であった。日本国内だけでなく、外遊時に集めたものに加え、神戸ゴルフ倶楽部の創立メンバーで1917年度のキャプテンだったスコットランド人、H.E.ドーント(1915年の日本アマチュアゴルフ選手権優勝者。神戸居留地の外国人たちの登山とゴルフの機関紙『INAKA』の編集者としても著名)が1928年に帰国するとき貫一に寄贈した書籍などが、現在、廣野ゴルフ倶楽部内にあるJGAゴルフミュ―ジアムに保存されている。
文/近藤雅美
参考文献/鳴尾ゴルフ倶楽部100年誌「NARUO SPIRIT」、神戸ゴルフ倶楽部60年史
西村の豪快なショット
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