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PERSON プロゴルファー

福井 覚治

日本初のプロゴルファー

 

 

福井覚治
Kakuji Fukui
1892(明治25)~1930(昭和5)

 福井覚治(生年時の名は福井吉太郎)は、生家が横屋ゴルフアソシエーション(1904年開場、日本で2番目に創立したゴルフクラブ)に隣接しクラブハウスの代わりとして使用されたことから、横屋ゴルフアソシエーションの創設者ウィリアム・ジョン・ロビンソンのキャディとなりゴルフを覚える。
 「明治37-8年(注・1904―5)横屋にリンクスが出来た時、私は12歳で始めてキャディをしたのです。16歳になった時には少しくプレーも出来るようになっていました。その後安部さん(注・安部成嘉)が誰か相手をしてくれる人はないかと云うので私がお伴しました。それがレッスンの始まりとでも云うのでしょう。ちょうど41年か42年の頃です。ブレーヤー即ち安部さんの他は皆外人ですが、それは自分の子供のようにしてくれました。ギルさんからマッシーを貰ってこの一本でラウンドしてゴルフを楽しみました。別けても、ロピンソンさんは私を月定めのキャディにしていましたから、一年のうち二三回は六甲にもお伴しました」(『ゴルフドム』1930年3月号福井覚治『始めを語る』より。現代表記に修正)
 1920年、舞子カンツリー倶楽部(現・垂水ゴルフ倶楽部)が設立された時、福井はキャディマスター兼プロとして採用された。これが我が国におけるプロゴルファーの誕生である。 

 

レッスンプロ、クラブ修理、コース設計。
多忙を極めた福井覚治

 横屋でゴルフを学び、舞子でプロとなった福井は、後にスコットランド人のプロゴルファー、ダビッド・フード(摂政宮時代の昭和天皇にゴルフを指導。茨木カンツリー倶楽部東コースの設計者)の影響を受け、ゴルフ指導者としての道を究めたという。
 「“覚さん”がプロの態度を学んだのはスコットランド生まれのプロ、フードがマニラから来て暫く滞在して横屋でレッスンを開始した時である。“覚さん”はフードのショットをよく研究もし又その教え方も見習った。これ以来“覚さん”の教え方がうまくなった」(ゴルフドム1930年4月号「“覚さん”の病没を悼む」伊藤長蔵)
 1926年に行われた第1回の関西オープンゴルフ選手権競技で優勝するなど、トーナメントプロとして活躍し、宝塚ゴルフ倶楽部の旧コース設計(最初の3ホール)にも携わった福井覚治だが、より高く評価されるべきは、日本のゴルフレッスンの草分けとなったことだろう。ママチュアの指導だけではなく、宮本留吉など、数多くのプロゴルファーを育てている。
 福井覚治の長男・康雄、次男・正一もまた、プロゴルフの道へと進み、長男・康雄のゴルフは「自然流」と言われ、その教え子は30万人以上。少年時代の倉本昌弘プロを指導したのもまた、福井康雄であった。
 またロビンソンがロンドンから取り寄せた機械を使い、クラブの修理も手掛けている。その技術は、クラブ製作者としても名高い宮本留吉へと受け継がれていくこととなる。
日本初のインドアゴルフレッスンを始めたのも福井覚治であった。
「舞子クラブが出来、横屋コース(注・甲南ゴルフ倶楽部)が繁盛してゴルフ熱が高まった結果、漫談や会食するために阪神ゴルフ倶楽部と云うものが神戸に出来て隣の倉庫に練習場を設け“覚さん”がそれを引き受けてやることになった」(「ゴルフドム」1930年4月号「“覚さん”の病没を悼む」伊藤長蔵)
 このインドア練習場が繁盛し、各地からレッスンの依頼が舞い込むなど、レッスンプロとしての仕事は順調であったが、あまりに多忙となった福井は健康を害してしまう。これが後に病に倒れる遠因となったと言われる。享年37歳。あまりにも早い他界であった。

 

文/近藤雅美

 

「ゴルフドム」1922年11月創刊号に掲載された「福井教習所」の案内(上)と奥付(下)。当時は福井が「覚次郎」の名で発行人を務めていたことがわかる

 

参考文献:
「日本のゴルフ史」西村貫一著、1930年初版、文友堂
「茨木カンツリー倶楽部100年誌」 

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