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PERSON プロゴルファー

ダビッド・フード

天皇のゴルフ教師

 

David Hood
ダビッド・フード
1887(明治20)-1952(昭和27) 

 ダビッド・フードは日本のゴルフ草創期に、二つのことで名前を残している。ひとつは昭和天皇(当時は摂政宮)にレッスンをしたプロとして。そして、大阪の茨木カンツリー倶楽部東コースの設計者として。その重要さの割には、実像はいまひとつ定かではなかった。しかし、このほど茨木CC創立百周年記念誌所収の野田雄比古著「評伝ダビッド・フード」によって、その人となりが明らかになった。
 ダビッド・フードは1887年、スコットランドはマッセルバラで生まれた。古くからゴルフが盛んだった土地柄ゆえか、兄弟3人はみなプロゴルファーになった。ダビッドは先に移住した兄を頼り、1903年、16歳のときにニュージーランドに渡り、1907年にオタゴGCのプロとなった。さらに、1920年にはフィリピンのマニラGCのプロに就任した。見知らぬ土地をめざすことをいとわない性格だったのか、ここで三井物産東京の井上信への伝手を得て、1922年日本に渡った。
 日本に着くと、さっそく駒沢の東京ゴルフ倶楽部などでレッスンを始めた。1922年と言えば、来日した英国皇太子(後のエドワード8世)と摂政宮(後の昭和天皇)がその駒沢で親善試合を行うなど、ゴルフが脚光を浴びた時期でもある。同年10月12日、フードは新宿御苑にあった皇室専用コースに招聘された。その日、摂政宮はフードと赤星鉄馬(赤星四郎、六郎兄弟の長兄)のプレーをご覧の後、フードのレッスンを受けた。宮内省(現・宮内庁)の職員がその様子を活動写真におさめたという。

 

「ゴルフドム」1924年7月号に掲載されたダビッド・フードのスイング

 

茨木カンツリー倶楽部の設計者

 その頃、大阪では茨木カンツリー倶楽部発足の準備が進んでいた。倶楽部の発起人たちは、大谷光明、井上信からの推薦を受け、フードにコースの設計を依頼する。これを受けてフードは1923年夏に来阪した。と言っても、ゴルフコースの設計という仕事がまだ一つの職として確立していなかった時代、フードとしても設計は初めてのことである。
 彼に与えられたのは省線(現JR)茨木駅の近郊、ため池と棚田、雑木林から成る里山であった。マッセルバラで育ち、ニュージーランドでプロになったフードからすると、この日本的な景観の土地をコースにするのは難しいテーマだったかもしれない。コースになる直前の地図とできあがったレイアウト図を比較すると、フードは棚田だったエリアをそのままルーティングに利用したことがわかる。尾根を使ったり越えたりすることはほとんどなく、谷あいの棚田に沿って打ち下ろしていくフェアウェイがいくつかある。ため池に張り出した水田をそのままグリーンに活用したところも見てとれる。
 こうして、フード苦心の作は1925年10月1日、18ホールのコースとして開場した。倶楽部グリーンコミッティの加賀正太郎はフードのルーティングについて「11万余坪の地積にあれだけ変化の多いコースをはめ込んだ事は称賛に値する」と述べている。さらに、フードは雲仙ゴルフ場と今はない長崎ゴルフ倶楽部諫早コースの改造を施した。
 茨木カンツリー倶楽部東コースは、C.H.アリソンの改造を経ても、フードの基本的なルーティングや里山を活かした景観を現在もよく伝えている。現存する18ホールのコースとしては日本で二番目に古い存在として、100年の時を刻んでいるのだ。

 

監修・野田雄比古、文・河村盛文

 

参考文献:野田雄比古著「評伝ダビッド・フード」(茨木CC創立百周年記念誌所収)
肖像写真:クレイン・オビンク夫人(フレッド・フードひ孫)提供
スイング写真:「ゴルフドム」1924年9月号

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