COURSE 日本の歴史的ゴルフ場
舞子カンツリー倶楽部
1920年10月、
南郷三郎らにより発足
鳴尾ゴルフアソシエーションの末期にゴルフを始めた南郷三郎(当時、神戸桟橋社長。のちのJGA初代チェアマン、日本綿花社長)、久保正助(神戸瓦斯常務)、羽山誼吉の諸氏が発起人となり、兵庫県垂水村(現・神戸市垂水区)の丘陵地に、1920年(大正9)年10月3日、舞子カンツリー倶楽部が開場した。
9ホール、2482ヤードのコースを設計したのは、ニッボン・レース・クラブ・ゴルフィング・アソシエーション(根岸)が招請した英国人プ口、グリーンであった。
設計者と言われるグリーンの詳細は不明だが、「日本のゴルフ史」の西村貫一の記述によれば、グリーンは日本に初めてやってきた上海ゴルフ倶楽部所属のプロゴルファーであり、1914年7月18日から8月10まで日本に滞在し、神戸でレッスン会を行ったという。
「(舞子の)コースの設計を見てもらった」との記載があるが、舞子の開場が1920年10月であることを考えると、コースの土地を見て設計を行ったのではなく、日本から上海に戻ったのちに、設計図面を見て監修したということかもしれない。
その後、グリーンは上海の地で、1919年3月21日にインフルエンザに罹り30歳の若さで亡くなったという手紙が届く。
これに対し、神戸ゴルフ倶楽部と舞子ゴルフ倶楽部のゴルファーたちは、残された夫人と小さな子供二人のために500円を寄付したという。ちなみに、当時の公務員の初任給は70円であった。
舞子からパブリックを経て
垂水ゴルフ倶楽部へ
舞子カンツリー倶楽部は福井覚治をキャディマスター兼プロゴルファーとして雇用。これが日本初のプロゴルファーの誕生となる。また、アシスタントとして採用された越道政吉は甲南ゴルフ倶楽部において日本で2番目のプロとなっている。神戸、鳴尾、根岸や東京との倶楽部対抗戦も行われ、多くの関西ゴルファーがこの地で育まれていった。
しかし、舞子のコースはアップダウンがきつくコンディションも悪く、のちに12ホールになったとはいえ本格コースと言えるものではなかった。大阪のゴルファーにとっては交通の便が悪いのも問題であった。茨木カンツリー倶楽部(1925年開場)や廣野ゴルフ倶楽部(1932年開場)が完成すると、舞子カンツリー倶楽部は解散を余儀なくされ、会員の多くは廣野へと移っていった。
コースの土地は宇治川電気株式会社(のちの山陽電鉄)の系列である新興土地建物に売却され、1932(昭和7)年9月 、舞子ゴルフ場へと生まれ変わる。
舞子ゴルフ場はパブリックコースとして関西ゴルフの大衆化に大きく貢献するが、1943年8月31日 、太平洋戦争の激化によりコースとクラブハウスは三菱重工業に売却され、厚生農園として使用されることとなる。
舞子のコースが再び注目を集めたのは、廣野、鳴尾、宝塚、茨木などのクラブが復興し始めた1949(昭和24)年のことである。
当時、神戸市楠町にあった練習場「楠六倶楽部」の経営者たちが安くて気楽に回れるゴルフ場を作ろうと、旧舞子カンツリー倶楽部の土地の再利用を提案すると、山陽電鉄など多くの企業・団体も協力。土地を所有していた中日本重工業(現在の三菱重工業)から土地を借用し、9ホールのコースとして、1951年9月12日、垂水ゴルフ倶楽部が創設された。
1954年9月7日 には、鳴尾ゴルフ倶楽部(猪名川コース)の設計などで知られるJ・E・クレーンの設計による18ホールが完成し、ほぼ現在の姿の垂水ゴルフ倶楽部が完成した。
戦前のコース全景
文/近藤雅美
写真/「美しい日本のゴルフコース」ゴルフダイジェスト刊より
参考文献:
「日本のゴルフ史」西村貫一著、1930年初版発行、文友堂
「関西ゴルフの生い立ちと思い出」廣岡久右衛門著
「南郷三郎回想」発行者/南郷茂治
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