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COURSE 日本の歴史的ゴルフ場

甲南ゴルフ倶楽部

横屋ゴルフアソシエーションの跡地に
6ホールで誕生

 日本で2番目のゴルフクラブ、横屋ゴルフアソシエーション(1904年設立)は、土地の問題で1913年に閉鎖されたが、結局、その跡地は使用されずに放置されていた。
 南郷三郎、伊藤長蔵、羽山鍹吉らが発起人となり地主からこの土地を借上げて、1922年に設立したのが甲南ゴルフ倶楽部である。コースは横屋時代の6ホールをそのまま改修して使用していた。

 

甲南ゴルフ倶楽部のヤーデージ

Hole  Yards Par
1 205 3
2 150 3
3 98 3
4 250 4
5 210 3
6 265 4
  1,176 20

(摂津茂和『日本ゴルフ60年史』より) 

 

 6ホールしか持たない甲南ゴルフ倶楽部ではあったが、地の利が良かったこともあり、関西のゴルフ界には大きな影響を及ぼしている。

 

JGA創立の7クラブの一つ

 「甲南ゴルフ倶楽部は、鳴尾、舞子と鼎立して、関西ゴルフ界発展の温床となったが、特記すべきことは、日本で最初にプロとなった横屋出身の福井覚治が、甲南ゴルフ倶楽部の創立された大正11年に、コース近くの青木に教習所をひらいて、ゴルフ・レッスンをはじめたのが、その原動力の一つとなったことである」(摂津茂和「日本ゴルフ60年史」)
 摂津茂和が記した「青木(おうぎ)の教習所」は日本最古のインドア練習場であり、甲南のメンバーをはじめとする多くのゴルファーが、ここで福井覚治の指導を受け、ゴルフの研鑽を積むこととなる。
 のちに甲南ゴルフ倶楽部は1924年のJGA創立に参加した7クラブの一つであり、1926年のKGU(関西ゴルフ連盟)創立時に加盟した7クラブとなっている。

 

甲南ゴルフ倶楽部

 

災害から復興するも、1942年に閉鎖

 1934年9月22日、未曽有の巨大台風が関西地方に上陸した。関西地区のゴルフコースの多くが被害を受けた。甲南ゴルフ倶楽部は、この風水害から立ち直る事が出来ず1938年にはJGAを退会、閉鎖されてしまう。 2 カ月後に復旧するが、1938(昭和13 )年7月5日の表六甲連山の山津波の災害により横屋コースは完全に閉鎖となる。
 その後、甲南ゴルフ倶楽部は、横屋より 2,000 メートルほど東北の本山村北畑(現・神戸市東灘区本山町北畑)に、当時委員をしていた高畑誠一、渡辺節らによって再建が計られ、福井八十八の設計で練習場を兼ねた 6ホールを1938年12月に着工。翌1939年7月に開場する。
 一度は蘇った甲南ゴルフ倶楽部が、ついに閉鎖となったのは、1942(昭和17)年5月のことであった。
 関西地区のゴルファーの育成に大きな役割を果たした甲南ゴルフ倶楽部だが、その記録は鳴尾ゴルフ倶楽部との対抗戦などを除き、ほとんど残されていない。幻のごとく、歴史のかなたへと消え去ってしまったのである。

 

参考文献:「新版日本ゴルフ60年史」 世界ゴルフ大観 日本編 著/摂津茂和、1977年、ベースボール・マガジン社

 

甲南ゴルフ倶楽部が表紙になった「ゴルフィング」1936年11月号

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