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HISTORY 組織

JGAの誕生

1924年、東西7クラブにより創立

 公益財団法人日本ゴルフ協会(略称JGA)は、1924(大正13)年に結成された、日本のゴルフを統括する団体である。
 JGAを構成する会員は個々のアマチュア俱楽部で組織されている全国8地区の連盟(北海道、東北、関東、中部、関西、中国、四国、九州の各連盟)であり、日本スポーツ協会の加盟団体でもある。
 1924年10月17日、東京ゴルフ倶楽部の駒沢コースで、日本アマチュアゴルフ選手権の終了後にJGA創立のための会議が行われた。出席したのは、神戸ゴルフ倶楽部、ニッポン・レース・クラブ・ゴルフィング・アソシエーション(横浜根岸NRCGA)、東京ゴルフ倶楽部、鳴尾ゴルフ倶楽部、舞子カンツリー倶楽部、程ヶ谷カントリー倶楽部、甲南ゴルフ倶楽部の計7クラブの代表たち、J.D.トムソン、F.W.マッキー(神戸GC)、A.E.ピアソン、E.C.ジェフリー(NRCGA)、大谷光明、G.N.モーガー(東京GC)、西村貫一、W.ブッチャー(鳴尾GC)、南郷三郎(舞子CC)、井上信(程ヶ谷CC)、伊藤長蔵(甲南GC)の11人であった。
 神戸ゴルフ倶楽部が1903年に誕生して以来、在留外国人により主導されてきた日本のゴルフ界だったが、関西では1920年に鳴尾GC、舞子CC、1922年に甲南GC、関東でも1913年に東京GC、1922年に程ヶ谷CCなど、日本人が主体となったゴルフクラブが誕生する。
 ゴルフ競技の世界にも変化が起きていた。1907年の第1回大会以来、神戸と根岸の外国人ゴルファーで優勝を分け合ってきた「日本アマチュアゴルフ選手権」で、1918年、井上信が日本人として最初の優勝を果たしたのである。翌19年には川崎肇が、1921年には田中善三郎、1922年には大谷光明と、東京GCのメンバーが続けて優勝を遂げている。
 日本人が主体となって運営するクラブが増え、日本人ゴルファーが台頭すると、各クラブが横のつながりを持って日本のゴルフ界を運営し、その発展に寄与すべきとの機運が高まる。この機運を逃さず、数年前から組織づくりを計画していた大谷光明が各クラブの有力者たちに働きかけ「Japan Golf Association」(当時は英語表記)が誕生したのである。

 

JGA創立に貢献した大谷光明(写真右から2人目)。1926年からJGAのチェアマンとなり、以降、副会長、理事長、会長を歴任した

 

 JGA創立を担った大谷光明

 JGA誕生の一因としては、当時、英文であった競技規則が、複雑かつ難解なものであったことに起因するトラブルもあったという。英文の規則を十分に理解していなかった日本人の目には、英文の規則を駆使して試合に勝とうとする外国人ゴルファーの行為が、横暴と映ったのである。
 このルール問題の重要性を痛感していたのが、大谷光明であった。大谷が、ゴルフの正常な発展のためには日本人の手でゴルフルールを管理する組織が必要であると考えたことも、JGA誕生の一因となったといわれる。また、JGAの創立時の会則(英文)を作成したのも大谷が中心であった。
 大谷が主導して創立したJGAはのちに、東西のバランスを考慮し、甲南ゴルフ倶楽部の代表である南郷三郎、程ヶ谷カントリー倶楽部の浅野良三、そして東京ゴルフ倶楽部の大谷光明の3人を実行委員に選出。初代チェアマンには東西どちらのゴルフ界にも精通した南郷三郎が就任した。大谷光明は1926年から2代目のチェアマンとなっている。
 JGAには創立以来「チェアマン、理事長(現在は会長)には,俱楽部代表が当たるのではなく,ゴルフ界を代表し得る人物とすべし」という伝統がある。代表者は人物で選ぶというこの伝統は、今も変わらず受け継がれている。
 以降JGAは、アマチュアゴルフの真精神の普及やナショナルハンディキヤップ制の実施、日本アマチュア選手権の開催、英国規則の採用などを次々と実行。今日の日本ゴルフ界の基礎を着実に築いていく。

 

参考文献:
「日本ゴルフ協会七十年史」
「東京ゴルフ倶楽部75年史」

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