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COURSE 日本の歴史的ゴルフ場

室蘭ゴルフ倶楽部

1929年、太平洋に面した
イタンキ浜で開場

 北海道3番目のゴルフ場としてイタンキゴルフクラブが発足したのは1929(昭和4)年12月のことである。翌年には、太平洋に面したイタンキ浜(現・室蘭市東町)に、3027ヤード、パー36の9ホールが開場した。
 イタンキはアイヌ語で「お椀」の意味だという。この地がイタンキ浜と呼ばれるようになった由来には諸説あるが、近年は「エゾツメタ貝が砂の中に産卵した粘液状の卵塊が浜で乾燥すると、砂でできたお椀のように見える。これがたくさん散らばっていたからイタンキ浜と呼ぶようになった」という説が有力のようだ。
 砂のお椀がごろごろと転がっている不思議な土地に、イタンキゴルフクラブ(1931年に室蘭ゴルフ倶楽部と改称)は生まれたのである。

 

海に突き出た半島の向こう側がイタンキ浜。室蘭競馬場が見える

 

 雑誌「ゴルフドム」1931年7月号の「避暑地とゴルフリンクス」なる記事の中で、イタンキゴルフクラブはこう紹介されている。
 「本邦リンクス中稀にみる佳景で東に茫漠たる太平洋の波濤を脚下に壓し(あっし)西は室蘭港湾を掌理に収め北はいわゆる胆振(いぶり)アルプスの連峰を望み風光の佳言後に絶す」(一部現代語訳。カッコ内は筆者注)
 東に太平洋、西には室蘭の港、北には胆振(室蘭、登別、苫小牧などの旧地名)の山々。イタンキ浜は、何とも言えぬ絶景の地だったのだ。 

 

開場当時のイタンキゴルフ俱楽部

 

クラブ設立を主導したのは
日本のゴルフ史に残る二人のゴルファー 

 クラブ設立の中心となったのは、日本製鋼所(当時の本社は室蘭市)の水谷淑彦と同じく日本製鋼所の一色虎児。
 水谷は英国グリニッジの王立海軍大学に留学していた際、アメリカの海軍士官からゴルフを習った。1896年1月にゴルフをしたことが日記として残されているため、初めてゴルフをした日本人と言われる人物。海軍機関少将から日本製鋼所の常務となり、室蘭に赴任していた。
 一色は三井物産のニューク支店駐在中にゴルフを覚え、帰国後、東京ゴルフ倶楽部の会員となり、1916年、根岸で行われた第10回日本アマチュア選手権に、日本人として初めて出場している。三井物産勤務を経て日本製鋼所の取締役となっていた。
 設計を主導したのは、日本製鋼所の萩原英一。浜の近くにあった天然の野芝の草原を地形そのままに造成し、まず6ホールが完成した。
 グリーンも野芝であったが、やがて萩原が育成した立派なベントグリーンが完成。イタンキは、日本一のシーサイドコースだと評価が上がったという。
 それから10余年。太平洋戦争が始まると軍はクラブハウスを接収、イタンキ浜には陣地が敷かれた。戦後イタンキの土地は返還されたが、コースが再建されたのは1954(昭和29)年のことであった。

 

1965年、白鳥コースへと移転

 1957(昭和33)年9月、室蘭ゴルフ倶楽部は隣接していた競馬場の跡地を借り18ホールとなるが、急速な工業都市化の影響を受け室蘭市がコース移転を要請、等価交換で現在の場所(室蘭市崎守町)へと移転することになった。
 1965年、かつては白鳥が飛来していたという室蘭湾を見渡す丘陵地に、9ホールで新コースが仮開場。1966年4月には井上誠一設計で、イタンキコースの設計者でもある萩原英一が現場の造成を担った、6819ヤードの18ホールが完成した。
 イタンキコースは1965年8月、35年の歴史を終えたが、今もイタンキ浜には、およそ6ホール分の草原が手つかずのままに残されている。

 

文/近藤雅美

 

現在の室蘭ゴルフ倶楽部白鳥コース。写真は9番ホール

 

参考文献:
『永遠に不滅 白鳥コース ―86年の記憶-』2015年、戸井田直樹著
「ゴルフドム」1931年7月号
室蘭市医師親交会誌「波久鳥」1981年第2号
「日本製鋼所社史資料」 

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