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HISTORY 組織

関東ゴルフ連盟発足

はじまりは社交団体
日本ゴルファース倶楽部

 関東ゴルフ連盟(KGA)の創設は1935(昭和10)年3月18日。母体は1932年12月に創立されたゴルファーの社交倶楽部「日本ゴルファース倶楽部(NGC)」。NGCは東京・丸の内にある「東京會舘」に本拠を置き、会員の社交、懇親、および便宜(ゴルフ場への紹介)を図るとともに、ゴルフの普及を目的とする団体だった。創立時の活動骨子は、
①会員が自己所属外の倶楽部でプレーを希望するときは、便宜を図り、その倶楽部へ紹介する。
②会員は東京會舘内に設けられた練習場において練習し、先輩方の指導またはプロの教授を受けられる。目黒書店刊『ゴルフ』誌顧問、赤星四郎、六郎両氏が練習場にいれば、いつでも丁寧にコーチする(アントニン・レーモンド氏設計のドライビング・レンジ併設)。
③ゴルフに関する内外の雑誌を備えつけ、最近の海外ニュースを掲示する。
④各倶楽部の競技成績、その結果を掲示する。
 となっていた。
 そして、普及活動の一環として1934年7月1日、程ヶ谷カントリー倶楽部において、現在はKGA主催の「関東倶楽部対抗」を8倶楽部対抗として開催した。8倶楽部とは東京、程ヶ谷、武蔵野、霞ヶ関、我孫子、相模、藤澤、鷹之台で、このうち1943年に閉鎖された藤澤を除く7倶楽部が一般に名門倶楽部と認知され、「関東7倶楽部」と呼ばれる。
 翌1935年1月、日本ゴルフ協会(JGA)の理事会が東京・丸の内の工業倶楽部で開かれた。その席で赤星四郎がNGCの幹部に、前年に引き続いて「関東倶楽部対抗」の開催を要請した。これに対し、NGC側は幹部による協議会を開き、「NGCは単なる社交団体であろう。各倶楽部に直接関与するのは主旨が違う。NGCは社交機関として存続させ、別に競技、支配人の世話などについては関東の連盟を組織させるべきであろう」という結論に達する。
 NGCの常務理事である浅野良三は「関東にも関西のKGU(関西ゴルフ・ユニオン)と同じように各倶楽部を統一したもの(団体)が必要だ。倶楽部対抗も、この団体がやる。JGAの東西対抗に出場する関東側の予選もやる」と話し、関東ゴルフ連盟の創立を提唱していた。
 これを受け、NGCは1935年3月18日に、前記8倶楽部の代表も出席する理事会を開き、「関東ゴルフ連盟」の創立を決議。東京ゴルフ倶楽部史料室所蔵の議事録によれば、大半の賛同を得て、KGAの創設が決定。次いで、当面の課題が協議され、以下の事項が決まった。
①新連盟運営の負担金は月額50円、年600円とし、事務局を東京會舘に置く。
②連盟の規約は大谷光明(NGC)、程ヶ谷、武蔵野に依頼する。
③倶楽部対抗を昭和10年9月15日、川崎ゴルフ倶楽部で行う。
 そして、新たに動き出した関東ゴルフ倶楽部は同年6月7日、連盟規約、予算、初年度幹事倶楽部の承認などを求める設立総会を開催。当時、東京ゴルフ倶楽部副総裁の森村市左衛門を初代理事長として正式に活動を開始する。

 

関東ゴルフ連盟の会報誌「KGAニュース」創刊号

関東倶楽部対抗、関東アマ
関東オープンなどを創始

 KGAが手掛けた最初の大きな事業は、やはり倶楽部対抗競技で、当初の予定通り、1935年9月15日、多摩川の河川敷コースの川崎ゴルフ倶楽部で実施。前年と同じ8倶楽部が出場した。
 なお、このときから優勝倶楽部には「関東カップ」と呼ばれる優勝杯が授与されたことから、戦前「関東倶楽部対抗」は「関東カップ」と呼ばれていた。この「関東倶楽部対抗」は、戦前は1940年まで7回開催。
 KGAは他に、1938(昭和13)年に第1回関東アマチュアゴルフ選手権を開催。同選手権は、戦前は1943年まで続けられた。
 戦後、KGAは1954(昭和29)年に復活。同年4月に7倶楽部が出場する関東倶楽部対抗を再開。さらに、同年10月には関東アマチュアゴルフ選手権。そして、翌1955年5月には、関東オープンゴルフ選手権を創始した。
 関東ゴルフ連盟は2017(平成29)年に、それまでの任意団体から一般社団法人に改組。現在は1都10県の500を超える倶楽部が加盟。関東のアマチュアを対象にした、関東アマチュアゴルフ選手権、関東女子ゴルフ選手権、男女の関東倶楽部対抗などの競技を主催するとともに、ジュニアゴルファーの育成など、ゴルフの普及活動に努めている。

 

文/小関洋一

 

参考文献:
「関東ゴルフ連盟七五年史」
「関東ゴルフ連盟会報誌№102 2010年春号」
「同№135 2021年秋号」
 

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