PERSON ゴルフの先駆者
赤星六郎
赤星六郎
Rokuro Akahoshi
1898(明治31)~1944(昭和19)
赤星六郎は45歳で亡くなる少し前、友人との座談で次のように語った。「理想としてはゴルフ場のすぐ傍に庵を結びたい。そして朝早く自分の好きなクラブを一本だけ手にして朝露を踏みしめながら一番のティーに向かう。そこでティーアップして誰もいないフェアウェーに向かって思いさま打ってみる。その球が美しい弾道をえがきながら朝もやの中を飛び去るのを眺める時、ああこれこそ本当のゴルフだ、と思えるのぢゃないかと」。アマチュアとして第一回日本オープンゴルフ選手権を制した六郎は、いかにしてこのような境地に至ったのだろうか。
日本オープンゴルフ選手権、
初代チャンピオン
赤星六郎は父・弥之助と母シズの六男として1898(明治31)年に生まれた。父・弥之助は薩摩の出身、明治維新後、イギリスから新政府への武器輸入で財を成し、息子たちの多くをアメリカに留学させた。六郎はプリンストン大学在学中にゴルフを始め、1924(大正13)年にはパインハーストスのスプリングトーナメントで優勝した。このことは快挙として現地で報じられた。本人は「プリンストンのレッスンプロとフロリダに鴨撃ちに出かけ、猟から帰るとゴルフ大会があるから出てみないかと誘われた。予選を通過してマッチプレーになり、いつ負けてもいいと気楽にやっていたら勝っちゃった。欲しくて手にした銀盃じゃない」と至って恬淡としている。
1925年に帰国後、東京ゴルフ倶楽部に入会すると倶楽部選手権を連勝、1926年の日本アマでは兄・四郎と並んで1位タイとなったが、プレーオフは病気のため棄権した。そして、1927年、程ヶ谷カントリー倶楽部で行われた第1回日本オープンゴルフ選手権に駒を進めた。第1ラウンドは兄・四郎がコースレコードを出したが、第2ラウンドで六郎がそのレコードを更新して首位に立つと、第3、第4ラウンドは独走状態となり、プロの浅見緑蔵に10打差をつけて優勝を飾った。その後、日本オープンでのアマチュアの優勝は、2022年の蝉川泰果まで95年間実現することはなかった。
もっとも、このことには注釈が要る。1920年代は日本のゴルフの黎明期で、プロの競技は前年の1926年に始まったばかり、競技の経験はアマチュアの方がよほど豊富だった。まして、アメリカ仕込みのゴルフを体現する六郎はプロたちにプレーを伝授する、生きた教材のような存在だったのである。六郎も自らの技術を惜しみなく伝えた。例えば、安田幸吉や宮本留吉は六郎の教えでグリップをインターロッキングに変えた。宮本は六郎からの誘いで東京ゴルフ倶楽部に「留学」、プレーだけでなくゴルファーとしてのマナーなど学ぶことは多く、六郎の恩義を後々まで忘れることはなかった。宮本、安田、浅見らの海外遠征実現は六郎の示唆によるところがあったという。
六郎は兄弟の中でも体格が一番で、スイングは見栄えがした。来日して四郎、六郎組とダブルスで対戦したウォルター・ヘーゲンは「アマチュアの赤星兄弟は米国に行っても一流アマチュアの中に互することができる。六郎氏が楽にスイングをしているときは申し分ないスイングをする」と評している。
六郎は雑誌にもよく寄稿し、ゴルフの心構えやスイングの基本を説いた。スイングについてはあくまでもその人の体格、技量にあったものを探しなさい、競技にあってはエクスキューズ抜きに全力を尽すべきだと説く、しかし「勝負ゴルフに終始して、己れ自身を相手としたゴルフをせぬ人は薄っぺらな人間であり、ゴルフをやっても、遂に真のゴルファーたり得ない人である」と言う。そして、「精神力、人格といったような内面的なものをこそ、名人達人の第一資格としていると言ってもよいであろう」とした。
1931年の日本オープン優勝者、浅見緑蔵を指導する赤星六郎。「ニッポン・ゴルフドム」1931年12月号より転載
アリソンとの出会い
さて1930年、C.H.アリソンが東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの設計のため来日した。六郎はこの時点で、相模カンツリー倶楽部、我孫子ゴルフ倶楽部の設計を手がけ、それぞれ造成中であった。六郎はアリソンと親しく交わり、自ら関わったコースにも案内した。アリソンはあのバンカーはどう、グリーンはどう、スロープはどう、と夢中になっていろいろなアドバイスを与えてくれたという。
折しも静岡県の川奈では大谷光明設計の大島コースに続いて、大谷光明監修・赤星六郎設計で富士コースの造成が始まっていた。そこで、川奈のオーナーの大倉喜七郎はアリソンに見てもらいたいと依頼をした。六郎や大谷光明らとともに川奈を訪れたアリソンは富士山から相模湾までを望む用地を一目見て感嘆し、アドバイスの域を超え設計を引き受けることになった。アリソンの帰国後、図面が送られてきた。その結果、川奈ホテルゴルフコース富士コースは、アリソンの設計として日本を代表するコースとして評価され現在に至る。
ところで、ゴルフ設計者としての六郎は、アリソンの設計のセンスについて、どう見ていたのだろうか? 彼は次のエピソードを伝えている。川奈の後、関西に赴いたアリソンが六郎たちとともに京都の庭園を見て歩き、ある料亭で食事をしていたときのことだ。アリソンは「ふと話のとぎれた時にじっと一人で考え沈んでいたが口を開いて『ああ、あの水の流れの音は良いなあ』と感嘆の声を発した…この清哲の心境、透徹した風格は僕の感情を打たずにはおかなかった…彼はそれ程細かいアーキテクトのセンスを持っていたのである」と。そして、「アリソンが日本に来て、残して行ったゴルフアーキテクチュアのセンスは非常に大きいものである…アリソンのやったようなことは自分でも考えていたものであったが、それを実行に移す点に到らなかったことが多かった。がアリソンは自らが信じる所を堂々と実行して行ったのである」と敬意を表した。その一方で「日本人はアーティフィシャルな点についてはアリソンのまだ持っておらないもっと進んだデリカシーを持っていやしないかと思う」と自らの進む道を示した。
アリソン来日と前後して六郎が設計したのが我孫子ゴルフ倶楽部(1930年9ホールで仮開場)、相模カンツリー倶楽部(1931年9ホールで仮開場)である。六郎は相模について、ゴルフアーキテクチュアとはアーキテクト自身の持っている芸術的な和らかさが織り込まれなければ理想的とは言えないとした上で「各ホールは私自身が抱いている夢と理想の表現である」とその思いを述べた。
アリソンもまた、六郎の資質を大いに認めていた。六郎は1936年夏から9カ月、コース設計研究のためJGAの紹介状を持ち英米のコースを見てまわったのだが、このときはアリソンがミュアフィールドやサニングデールなど、あちこちのコースを推奨し紹介した。のみならず、オックスフォード出身のアリソンはオックスフォード&ケンブリッジ・ゴルフィングソサエティの晩餐会に六郎を招いた。外国人初の賓客扱いに六郎はすっかり感激し、「あんな楽しい会を外に見たことがなかった。私たちもせめて五年に一度でもいい、ああした会を持つことができたら、どんなに楽しいか知れないと思った」と記した。
帰国後、六郎を囲み英米のコースをいかに見たかという座談会が催された。六郎は大いに語り、次のように結んだ。
「現在ある日本のコースはチャンピオンコースとして、英米のコースに十分匹敵するものがあることは我々の大いに誇りとするところである…僕はアーティスティックセンスにおいては西洋人に負けまいと努力をしていくつもりだ。そして色々な経験を積み、歴史を重ねて行ったなら日本のゴルフコースはもっともっと進歩するだろう…僕は変わらなければならないと思っている」
技術、マナー、コース設計……。
ゴルフの本質を追求した赤星六郎
しかし、六郎に残された時間はさほど長くはなかった。日中戦争から太平洋戦争へと続く時局の中で、六郎は神奈川県の二宮海岸で農業と海釣りの生活に入る。庭の先が海辺へと続き、太平洋を借景にしたような家だった。食糧難を予測し、赤星家全部のために麦や野菜を作っていたという。ところが、1944年、錆びた釣り針が刺さって菌が入り敗血症であっけなくこの世を去ってしまう。終戦まであと1年あまりのできことだった。
六郎は多くの人々に惜しまれた。雑誌「日本打球」(『ゴルフドム』を改題。ゴルフを『打球』と言い換えねばならなかった時代だった)は追悼の特集を組み、大谷光明、野村駿吉らが追悼文を寄せた。その中で、四郎は六郎の功績を「打球の方法を前より自由に、又礼儀も窮屈に過ぎず面白く遊べるものであるということを我打球界にもたらし一革命をなさしめました」と述べた。
六郎が活躍した1920年代から十数年間は、まさに日本がゴルフというスポーツ、文化、世界観を受容した時期である。そのまっただ中にあって、赤星六郎は競技、技術、コース設計、ゴルフの本質や理想についての思索など多方面にわたって、海外との懸け橋となっていた。そして、それをいかに日本のものとして根付かせるのか試行錯誤し、高みをめざしていたのであろう。
文/河村盛文
参考文献:
「赤星家のゴルフDNA」 隅田光子著、ゴルフダイジェスト社刊
「赤星鉄馬 消えた富豪」与那原恵著、中央公論新社刊
東京ゴルフ倶楽部75年史
程ヶ谷カントリー倶楽部40年史、50年史
相模カンツリー倶楽部40年史
茨木カンツリー倶楽部100周年記念誌
日本ゴルフ全集7・人物評伝編 井上勝純著、三集出版刊
「廣野、川奈はなぜ日本一なのか」 田野辺薫著、ゴルフダイジェスト社刊
「CHOICE」(ゴルフダイジェスト社)2021年11月号「アリソンさんがやってきた。」
「ゴルフドム」1925年~31年
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