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HISTORY 競技

関東関西婦人対抗戦

1926年、関東関西
婦人対抗戦が始まる

 戦前に、倶楽部競技以外で毎年定期的に行われていた唯一の女子競技。
 第1回が開催されたのは1926(大正15)年。当時、関西には西村まさ(当時29歳)を始めとする神戸ゴルフ倶楽部のメンバーを始め、舞子カンツリー倶楽部(現在の垂水ゴルフ倶楽部の前身)や茨木カンツリー倶楽部のメンバーが加盟する「関西婦人ゴルフ倶楽部」(設立は1925年)という女子ゴルファーの組織が結成されていた。
 一方、関東では女子ゴルファーは東京ゴルフ倶楽部のメンバーしかおらず、その中心的存在である三井栄子(当時31歳)が女子ゴルファーの組織づくりや競技会づくりに奔走していた。そして、誕生したのが「東京婦人ゴルフ倶楽部(東京ゴルフ倶楽部の単独チーム)」と「関西婦人ゴルフ倶楽部」による関東関西婦人対抗戦で、同年5月21日に東京ゴルフ倶楽部(駒沢)で開催された。

 

関東関西婦人対抗戦の模様を
「関東対関西レディース競技」のタイトルで報じた
「ゴルフドム」1926年6月号

 

第1回大会は
関東の圧勝

「東京ゴルフ倶楽部75年史」では次のように紹介されている。
「関西は舞子、茨木の連合だが、関東は全員が東京ゴルフ倶楽部、いわば東京対関西マッチである。対抗マッチの開催を主唱したのは三井栄子、戦前には全国的な女子トーナメントがなかったので、日本女子競技の第一号である」
 試合は、前半がフォアボールによるチーム戦の3マッチ、後半がシングルスの6マッチの計9マッチで争われ、結果は関東7.5ポイント、関西1.5ポイント。9マッチを関東が7勝1敗1分け(オールスクエア)で圧勝した。このオールスクエアの1マッチというのが、両チームのエースである三井栄子と西村まさのシングルスの対決だった。
「第1回の対抗競技の日は、時々小雨、午後にはにわか雨さえきた。コースに馴れない関西側は苦戦をし、結果は関西の野田夫人(注:野田喜見)が東京の鳩山夫人(注:鳩山千代子)に1ポイントを得、西村夫人が三井夫人とオールスクエアになったほか、全員関西の負けとなった。一般に東京は腕が揃い、かつゲームに馴れているが、関西は西村夫人だけが抜きんでて強く、他は技量がまだ揃っていなかった」という戦評が「東京ゴルフ倶楽部50年史」に記されている。
 といっても、翌年茨木CCで行われた第2回は6対6の引き分けだった。「ホーム・アドバンテージ」の要素が大きかったようだ。
この関東関西婦人対抗戦は、1年遅れて始まった男子の東西対抗と同様、舞台を東西交互に替え、1937(昭和12)年まで11回実施(1936年大会は時局柄中止)。通算成績は関東の7勝2敗2分けとなっている。

 

文/小関洋一

 

参考文献:
「日本ゴルフ協会七十年史」
「東京ゴルフ倶楽部50年史」
「東京ゴルフ倶楽部75年史」
 

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