HISTORY ゴルフ場
雲仙ゴルフ場
1913年「池之原ゴルフ玉投場」として開場
雲仙ゴルフ場は、我が国ではじめて県立公園に指定された県立温泉公園(「温泉公園」の名称は翌年「雲仙公園」に変更された)内に、設立直後の1911(明治44)年に着工されたが、翌シーズンには間に合わず、1913(大正2)年に9ホール(3200ヤード・ボギー39)のコースとして完成した。当初は「池之原ゴルフ玉投場」¹と呼ばれていた。
雲仙ゴルフ場の発足の背景と経緯の大筋については、『和白30年史』(1982年)を参照したい。同年史によれば、『雲仙ゴルフ場沿革』(雲仙公園事務所、1930年)には、次のように記されているという。「明治44年(1911)、長崎県内務部長・秦豊助が県営公園の設置を提唱し、県知事・犬塚勝太郎が東大教授・松村任三博士(日本植物分類学の先駆者)の現地視察による意見を徴して、雲仙県営公園とその一環としてのゴルフ場やテニスコート等娯楽施設の開設を決定したのが同年4月4日となっている。(中略)コースの初期計画を立案したのは米国領事ダイクマン、香港上海銀行支配人メー、長崎在住の英商社員バックランドとウォーレス等で、倉場富三郎が斡旋役をつとめたという。」² また、「ゴルフ場候補地の池の原一帯は民有地のため、長期地上権設定の必要があり、秦内務部長は関係地主と折衝を続けたが、協調前に転任し、後任の内務部長・岡田忠彦に至って地主との交渉が成立し、明治45年秋、99年の地上権登記設立が終了した。造成工事は土木課長・鈴木格吉および建築技師・山田七五郎によって明治44年以降多額の建設費を投入して大正2年8月14日、9ホールのコースとわらぶき屋根のクラブハウスが完成した。」³とある。
ところで後年、山田七五郎が秦豊助(1872-1933)を偲んで書き残した手記がある。『ゴルフ場開設の卓見』と題した短い手記ではあるが、雲仙ゴルフ場計画がどのように進められたのかがわかる手がかりとして、一部引用する。「長崎の香港上海銀行支店長に『メー』さんと言う英人が居まして、雲仙の空池の附近はゴルフリンクスの好適地であり、三四千円も投ずれば容易に出来上がるだらうと先生に話し込んだものです。先生は直ちに賛成して、私に其調査方を命ぜられた」⁴(原文ママ)。さらに山田は、六甲山(神戸ゴルフ倶楽部)にゴルフリンクスの視察に行き、「薄々ながらこんな物だと言うことが判って」工事に着工したとも記している。
ゴルフドム1928年9月号に掲載された雲仙ゴルフ場のレイアウト図
米国領事ダイクマンらが初期計画を立案
ここで、先述した雲仙ゴルフ場建設に関わった長崎在住の欧米人について補足しておく。
「ダイクマン」とは、長崎の米国領事館に領事として着任したカール・F・ダイクマン(Carl F. Deichman)のことで、1909(明治42)年8月中旬から1915(大「正3)年5月まで長崎で過ごした。「メ―」は、香港上海銀行(HSBC)の長崎支店長だった英国人のC・W・メイ(C・W・May)である。1889(明治32)年には神戸支店のスタッフとして神戸にいたことがわかっている。⁵
「英商社員バックランドとウォーレス」とは、ホーム・リンガー商会のパーシー・J・バックランド(Percy J. Buckland)とジェームズ・H・ウォレス(James H. Wallace)であると考えられる。グラバー商会倒産(1870年8月22日)後、長崎最大の外国人商会であったホーム・リンガー商会のフレデリック・リンガー(Frederick Ringer)には、信頼する3人の部下(ニール・B・リード、ジェームズ・H・ウォレス、パーシー・J・バックランド)がいたが、ニール・B・リード(Neil B. Reid)は下関の瓜生商会(ホーム・リンガー商会の支店)の支配人として長崎を離れて暮らしており、ウォレスとバックランドは基本的に長崎で商会の業務にあたっていた。「英商社員バックランドとウォーレス」という記録が残っているのであれば、それはリンガーの3人の部下のうち長崎に居た2人を指していると考えるのが自然であろう。ウォレスは商会の保険部門を統括し、バックランドは船舶部門を担当する他、ベルギー、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、ポルトガルの領事代理業務、さらにナガサキ・ホテルの財務処理も受け持っていた。1907(明治40)年にリンガーがこの世を去ったあとも3人の部下は商会を支え、それは1915(大正4)年にリンガーの2人の息子たちに事業を引き継ぎ引退するまで続いた。
そして倉場富三郎(英語名はThomas Albert Glover、愛称は”トミー”)は、トーマス・B・グラバー(Thomas Blake Glover)の長男である。1892(明治25)年にアメリカ留学から帰国後、見習い期間を経て1893(明治26)年にホーム・リンガー商会に入社した。当時、日本語を流暢に操る英国人は稀有な存在だった。2つの国のアイデンティティーをもつ富三郎は、1894(明治17)年10月1日に日本国籍を取得し、正式に「倉場富三郎」と改名した。本来、日本語と日本の生活様式で育てられたため、外国人社会と日本人社会を何不自由なく行き来することができた。1899(明治32)年には富三郎らを発起人として「長崎内外倶楽部」が設立され、外国人と日本人の交流の場として活用されたが、雲仙ゴルフ場も同様の役割を担っていた。
開場から間もない雲仙ゴルフ場
1922年、県営パブリックに対する支援組織
「長崎ゴルフ倶楽部」を創設
さて、開場後の雲仙ゴルフ場についても触れておこう。『雲仙公園娯楽施設場、テニスおよびゴルフ場の入場料徴収規則』(大正2年8月1日付、長崎県令)によれば、「ゴルフリンクス入場券1回(1コース)、金20銭也(球拾いボーイ共)」とある。開場後の入場者数は1921(大正10)年頃まで年間300人を超えることはなく、当てにしていた上海、青島、香港、マニラ等からの外国人避暑客もゴルフをプレーする者は少数だった。当初から存続が危ぶまれたゴルフ場だったが、1914(大正3)年、当時の李家隆介知事はトーマス・クック(Thomas Cook)社の東洋総支配人セ・エッチ・グリーン(マニラ在住)に打開策を問い、施設の改善とともに支持母体として「俱楽部」を組織することを進言される。こうして地元長崎に住む日本人を中心に「温泉ゴルフ倶楽部」が結成された。集まった30人余の会員の中でも三菱長崎造船所の荘田達弥(当時、造機部参事、後研究所長、取締役)がもっとも熱心に勧誘活動を行ったとされている。
しかし、1922(大正11)年に荘田が東京本社に転任すると「倶楽部」の活動は一時的に衰退する。そこへ三井物産長崎支店長として岡田省胤が着任すると、これを機に倉場富三郎、波多野義男(当時、三菱長崎造船所営業課長、後日本光学社長)らは、新たな倶楽部組織として「長崎ゴルフ倶楽部」を創設した。会長には前長崎県知事・赤星典太、副会長には三菱長崎造船所所長・斯波孝四郎が名を連ね、長崎県の大森内務部長、小栗警察部長、その他県下の名士を勧誘し、俱楽部の発展を図った。同倶楽部について『和白30年史』は、「会則や定款は残されていないので詳しいことは判らないが、県営パブリックコースに対する支援組織であって、メンバーとしての恩恵を享ける俱楽部ではなかったようである。」⁶と記している。
実際に「長崎ゴルフ倶楽部」が組織される以前の雲仙ゴルフ場について、深刻な状態であったことを伝える記事が『ナガサキ・プレス』(1919年8月2日付)に残されている。
「ゴルフ場は悲惨な状態だった。実のところ、それは全くゴルフ場と呼ぶことができないものであった。フェアウェイは草ぼうぼうで、他のゴルフ場のラフのようだった。自分のボールを見つけることが難しく、仲間は皆それぞれがボールを数個は失くしてしまった。グリーンは馬から適切に保護されていなかった。保護しようとする試みが全くされていない場合もあり、正確にパターを打つことは問題外であった。ゴルフとテニスが、雲仙の当局からみると、客寄せのためにガイドブックに載せているだけのものにすぎないようだ。」(Reprinted in The Nagasaki Press, August 2,1919)⁷
倶楽部創設以降、ゴルフ場の維持管理は年間を通して向上し、約80名でスタートした会員数は急速に拡大した。とくに1923(大正12)年に当時、戦艦「比叡」の将校として士官していた伏見宮博義王が、小浜沖に停泊した際、雲仙で1ラウンドプレーしたことは世間の注目を浴びることとなった。
官民挙げての助成策が実り
昭和初期には大盛況となる
その後、雲仙ではゴルフ大会や対抗試合が盛んに行われるようになる。1924(大正13)年5月22日には、郵船会社の協力で関西方面の知名度の高いゴルファーを招待して、全国ゴルフ大会を開催した。この大会では、三菱商事大阪支店の永峯が優勝。また、福岡ゴルフ倶楽部(大保)とのインタークラブマッチは1928(昭和3)年から開始された。福岡側の選手で後に九州第1号・プロゴルファーになる照山岩男は、『九州ゴルフの生い立ち』(1973年)の中で次のように記している。「昭和3年に福岡ゴルフ倶楽部初の対抗試合ともいうべき『インタークラブマッチ』が長崎ゴルフ倶楽部(現在の雲仙ゴルフ場)との間で行われた。競技は午前が18ホールズ・マッチプレー、午後は18ホールズ・4サム、そしてシングルと4サムの合計の勝星の多いチームが、その時の勝ち俱楽部となる取り決めであった。第1回目は、たしか7、8月頃の暑い時期だったと記憶するが、福岡軍選手12人を選抜し、まるで学生が対抗試合にでも出かけるような気分で、長崎の雲仙ゴルフ場まで出かけたものだ。(中略)第1回目は残念ながら勝ちをゆずった。また技術的にも長崎軍は、福岡軍よりもゴルフでは先輩が多く、中でも雲仙ゴルフ場開場と同時に、英国人のフード氏に本格的指導をうけられた当時の三菱造船の技師長・西川氏(長崎原爆で他界)、沢山福弥太氏、同じく市松氏等は立派なプレーをされていた。」⁸ ここで登場する「フード氏」とは、当時マニラ在住のプロゴルファー、ダビッド・フード(スコットランド出身)のことである。フードは1923(大正12)年7月に大阪・茨木カンツリー倶楽部設計のため来阪しているが、雲仙には開場当時の1913(大正2)年頃から訪れていたことになる。また、1925(大正14)年には日本人プロゴルファー1号の福井覚治を招いて会員のコーチに当たらせた。このように官民挙げての助成策が実り、昭和初期の盛夏にはクラブハウスに120~130のキャディバッグが立ち並ぶ盛況を迎えるに至った。
文/井手口香
註
1)ブライアン・バークガフニ、中島恭子訳『欧米人が歩いた長崎から雲仙への道』フライング・クレイン・プレス、2023年、p.102
2)福岡カンツリー倶楽部・30年史編纂委員会『和白30年史』1982年、pp.3-4
3)同前、p.5
4)山田七五郎「ゴルフ場開設の卓見」秦 五十子編『秦豊助』1935年、p.56
5)HSBC Reference Number HQ HSBCPH 0180-0011-0005-0013
6)福岡カンツリー倶楽部・30年史編纂委員会『和白30年史』1982年、p.6
7)ブライアン・バークガフニ、中島恭子訳『欧米人が歩いた長崎から雲仙への道』フライング・クレイン・プレス、2023年、p.108
8)照山岩男『九州ゴルフの生い立ち』1973年、pp.34-37
参考文献
山口由美『長崎グラバー邸 父子二代』集英社、2010年
ブライアン・バークガフニ、大海バークガフニ訳『リンガー家秘録1868- 1940 長崎居留地資料で明かすホーム・リンガー商会の盛衰記』長崎文献社、2014年
ブライアン・バークガフニ、中島恭子訳『欧米人が歩いた長崎から雲仙への道』フライング・クレイン・プレス、2023年
福岡カンツリー倶楽部・30年史編纂委員会『和白30年史』1982年
茨木カンツリー倶楽部創立百周年記念事業実行委員会『茨木カンツリー倶楽部100周年記念誌』2024年
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