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戦後初の日本プロゴルフ選手権

戦後ゴルフ界に光、林由郎の優勝

 1945年(昭20)は中止としたプロ野球は、46年にペナントレースを再開した。戦時中、各地で本場所ではない興行を行っていた大相撲は、45年11月に被災して破損した国技館で10日間の戦後初の本場所を開催。プロゴルフ界は・・・。47年に関東で月例競技が復活。48年に公式戦では関東プロゴルフ選手権が戦後初の競技を再開、林由郎が優勝している。49年に関西プロ(優勝寺本金一)、関西オープン(優勝戸田藤一郎)も再開。本格的に「プロゴルフの復興」が進んだ。
 1943年から6年間中断していた公式戦「日本プロ」の再開は1949年。当時の大会名称は、日刊スポーツ新聞によると「全日本プロ招待ゴルフ競技会」とあり、朝日新聞には「日本プロゴルフ選手権」とある。この大会は関東プロゴルフ協会の主催となっているが、関西、関東のプロが集結した「日本プロ」の復活だった。
 舞台は千葉・我孫子ゴルフ倶楽部。この大会を制した林由郎のホームコースでもある。林の長男でプロゴルファーの由一によると「徴兵から帰った父は、芋畑になっていたコースをモッコかついで作り直したと話していました」という。コースの「復興」も大会開催への課題だったことがうかがわれる。当時の報道によるとコースは、グリーンはしっかりしていたが、それまでの悪天候で全体の状態は悪く、試合が接戦になったとしている。

 

林由郎(1922-2012)。日本プロ4勝、日本オープン2勝の名プレーヤーであり、青木功や福嶋晃子を育てた名伯楽でもあった

 

優勝賞金は3万円

 大会には58人が出場し、9月14、15日の2日間競技で、1日36ホール、計72ホールのストロークプレー(当時はメダルプレー)で争われた。初日(第1日)、首位に立ったのは孫士釣(後に小野光一に改名)。この日は南からの強風が吹き付ける中でのプレーだったという。孫は3オーバー147で回り、1打差で林が続いた。中村寅吉が2打差で3位につけた。
 最終日(第2日)は微風のコンディション。日刊スポーツ新聞に最終日の模様が詳しく掲載されている。初日首位の孫は、2バーディーを奪ったものの、パットにムラがあり、第11ホール(11番)で3パットのボギーをたたくなどスコアを落とし、2オーバー74。林は第8ホールのロングホール(557ヤード)で第3打をグリーンオーバーしながらパーで切り抜け、第9ホールでバーディーを奪って1アンダー71をマークし、54ホールを終えた時点で孫を逆転して首位に立った。3位は中村。
 2ラウンド目に入ると、林は第10ホールでティーショットを谷に落としたが、隣の第11ホールにボールを出し、林越えの「妙技を見せて」パーで切り抜けるなど、74にまとめてこの日145をマーク。通算5オーバー293でホールアウトした。孫は後半のインを2アンダーで回ったが、2打及ばず2位。第11ホールから3連続バーディーを奪った陳清水がこの日145で4打差3位に食い込み、中村は5位だった。
 優勝時の林のコメントは伝わっていない。長男由一も、この優勝について父からは聞いていないという。優勝賞金は3万円だった。

 

第17回日本プロゴルフ選手権主な成績

順位 選手名 1日目 2日目 Total
1 林由郎 148 145 293
2 孫士釣(小野光一) 147 148 295
3 陳清水 152 145 297
4 石井迪夫 150 154 304
5 中村寅吉 149 156 305
6T 藤井武人 162 146 308
6T 三田鶴三 154 154 308
8T 山本増二郎 155 154 309
8T 岩崎正人 154 155 309
8T 石井治作 160 149 309

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