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青木功、全米オープン2位

歴史を創った
青木功の“オリエンタル・マジック”

青木功(当時38歳、写真左)とジャック・ニクラウス(当時40歳、写真右)

 

 1980年6月12日、後に“バルタスロールの死闘”と呼ばれる全米オープンが始まった。舞台はニュージャージー州のバスタスロールGC(7076ヤード、パー70)。日本からは青木功がただ1人参戦していた。
 青木にとってこれが2回目の全米オープン出場。すでに全英オープンでは2度、7位に入り、首位も経験していたが、全米オープンでは初出場の前年は36位という平凡な成績だった。
 初日、2日目の予選ラウンドで青木はジーン・リトラー、そして帝王と称されるジャック・ニクラウスと同じ組になった。ニクラウスはこの時40歳。前年はプロ入り後、初めて優勝がなく、この年も未勝利。大会前には「今季の成績が悪ければ引退する」とさえ口にしていた。
 そんなニクラウスは初日、いきなり大会タイ記録の63を叩き出してトム・ワイスコフと共に首位に立つ。青木は引退発言があったニクラウスへの大声援に圧倒されながらも2アンダーの68にまとめて9位と好発進した。
 2日目、青木はインで真骨頂を見せつける。長い距離のバーディパット、パーパットを立て続けに決めてギャラリーの目をくぎ付けにしたのだ。インの9ホールはすべて1パット。“オリエンタル・マジック”と称される名手ぶりを存分に発揮し、ニクラウスも驚がくの表情を浮かべるほどだった。
 そのニクラウスはスコアをひとつ落としたが通算6アンダーで単独首位に。青木は2日連続の68をマークして2打差の2位に浮上した。
 3日目からペアリングは2人1組となる。青木は3日連続で帝王と、しかも最終組でプレーすることになった。 

 

帝王ニクラウスとの4日間

 一進一退の攻防が続き、16番を終えて差は2打のままだったが、パー5が続く上がり2ホールで青木が魅せた。17番で10m近い長いバーディパットを強目に打って沈め、18番では下りで左に曲がる2m強を繊細なタッチで決めて連続バーディ。通算6アンダーとしてついにニクラウスをとらえた。
 1打差の3位は前年のワールドシリーズ覇者ロン・ヒンクル、2打差の4位グループには帝王の後継者と目されるトム・ワトソンが控えており、追う顔ぶれも強力だ。
 帝王の復活を願う大勢のギャラリーに囲まれたファイナルラウンド、最終組は首位に並ぶ2人、青木とニクラウスである。
 2番、青木が3パットでボギーを先行させてしまう。3番でニクラウスがバーディを奪って2打差。4、7番でともにボギーを叩いた後、青木が8番で30cmにつけてこの日初バーディとするが、9番でまたもボギー。アウトを終えてニクラウスは通算5アンダーでキース・ファーガスと並ぶ首位。青木は通算3アンダーで3位に後退していた。
 迎えたサンデーバックナイン、ここから“バルタスロールの死闘”はクライマックスを迎える。
 10番、ニクラウスが1mにつけて後続を突き放しにかかるが、グリーン奥に外した青木が“伝家の宝刀”5番アイアンでの転がしでチップインバーディを決めて食い下がる。ニクラウスも慎重にバーディパットを入れ、コースに大歓声が響き渡った。
 11番から16番までは両者パーが続き2打差は変わらない。一時首位に並んでいたファーガスは10、17番ボギーで後退。青木は2位に浮上した。
 17番、ニクラウスが6mほどのバーディパットをねじ込み、青木も2m強を入れて応戦する。両者は2打差のまま最終ホールに向かった。
 18番は左サイドを流れる小川が途中で右に曲がってフェアウェイを横切るパー5である。先に打った右ラフからの青木の3打目、ボールはカップのわずかに左を通り過ぎて1m弱に止まった。
 続いてニクラウスの3打目、フェアウェイからピン下3mに寄せて勝利を確実なものにした。
 グリーンではニクラウスが先にバーディパットに臨む。ボールはゆるやかに右に曲がりながらカップに沈んだ。その瞬間、興奮した数人のギャラリーがグリーンになだれ込んだ。
 まだ青木のパットが残っている。帝王自らが手を上げてギャラリーを制止し、青木の元に歩みよって言葉をかけた。
 どよめきが静まるのを待って青木がバーディパットを決める。帝王に2打及ばなかったものの、通算6アンダーの2位。メジャーにおける当時日本選手歴代最高位である。
 ニクラウスのスコア、272ストローク(8アンダー)は当時の全米オープン新記録。“バルタスロールの死闘”はスコア的にも歴史的なハイレベルの戦いであった。

 

文/宮井善一

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