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デービッド・イシイが初の外国人賞金王

1987年、外国人プロに
門戸を開いた男子ツアー

 1987(昭和62)年、男子ツアーはひとつの改革を実行した。賞金ランキングによるシードを従来の40位以内から60位以内に拡大し、同時に日本プロゴルフ協会会員以外の外国人選手に対しても賞金ランキングによるシードを与えることになったのだ。
 当時は台湾の謝敏男ら一部の例外を除いて外国人選手は日本プロゴルフ協会に入会できず、シード権は認められなかった。グラハム・マーシュら会員ではない外国人選手はトーナメントへの出場は主催者推薦や優勝などによる資格で可能だったが、いくら稼いでも賞金ランキング外。つまり、賞金王のタイトルとは無縁だったわけだ。
 海外への門戸開放は外国人選手と競い合うことで日本人選手のレベルアップを図るという狙いもあった。そして、その初年度にいきなり初めての外国人賞金王が誕生した。
 主役は米国ハワイ出身の日系3世、デービッド・イシイだ。前年まで日本で3勝と実績のあったイシイは序盤から持ち前の安定したゴルフで毎週のように上位に入り、6月の札幌とうきゅうオープンでシーズン初優勝を果たすと2週間後のミズノオープンで早くも2勝目を飾った。

 

初出場の日本プロで
尾崎を抜いて首位に立つ

 7月の日本プロは従来、会員ではない選手は出場できなかったが、この大会も門戸開放された。そして初出場のイシイが見事に優勝。この時点で尾崎将司を抜いて賞金ランキング1位に立った。
 ここから、尾崎との賞金王争いが続く。この後1位を奪回した尾崎は9月のジーン・サラゼンジュンクラシック優勝でイシイを突き放し、翌週の東海クラシックでは2位。この時点で獲得賞金が6,000万円を超えてイシイに約1,422万円の差をつけた。
 10月下旬のブリヂストントーナメント、尾崎は3打のリードで最終日に入った。イシイは5打差の7位。尾崎からすれば一気に差をつけるチャンスだった。
 だが、最終日に76と崩れた尾崎はまさかの4位に終わった。一方、イシイは70にまとめて首位に並び、牧野裕、芹澤信雄とのプレーオフを制してみせる。優勝賞金1,440万円を加え、尾崎との差を約208万円にまで縮めた。
 イシイはこの後2週間休み、復帰したダンロップフェニックスでは15位。この大会6位の尾崎が差を広げた。

 

1987(昭和62)年の日本シリーズ。最終日が雪で中止になり、青木功(写真右)と優勝を分けあったデービッド・イシイ(写真左)。イシイは1955(昭和30)年ハワイ生まれの日系3世。日本ツアーで通算14勝、米ツアー(1990年ハワイアンオープン)で1勝を挙げている

 

シーズン6勝、予選落ちなしで賞金王 

 分水嶺となったのは翌週のカシオワールドオープンだ。1打差2位で最終日を迎えたイシイは首位にいた招待選手のサム・トーランスを逆転。1,620万円の優勝賞金を得て8,000万円を突破し、尾崎を抜いて賞金ランキング1位に躍り出た。
 イシイに約590万円の差をつけられた尾崎は意気消沈。残り2戦の欠場を匂わすような発言まで飛び出すほどだった。
 次戦の日本シリーズは初日と最終日が雪で中止になり優勝者が2人出る異例の展開となった。36ホールを終え、青木功と首位に並んでいたイシイがシーズン6勝目をつかみ、最終日の逆転を目論んでいた尾崎は1打差の3位。差は約801万円に広がった。
 尾崎が最終戦の大京オープンで逆転するには自身が優勝してなおかつイシイが4位以下で終わることが条件。イシイが絶対的優位に立つ中、大京オープン開幕2日前に尾崎が腰痛を理由に欠場を申し入れ、あっけなく勝負がついた。
 ツアー改革元年に初めての外国人賞金王に輝いたイシイは大京オープンを8位で締めた。獲得賞金は8,655万4,421円。シーズン通算成績は26試合に出場して6勝を挙げ、予選落ちはなし。10位以内が16試合あり、20位以内に入れなかったのはたったの1試合という圧倒的な安定感でつかんだ頂点だった。

 

文/宮井善一

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