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PERSON ゴルフの先駆者

髙畑 誠一

日本ゴルフの恩人

 髙畑誠一は、1887(明治20)年3月21日、愛媛県の内子町で生まれた。
内子は昔から教育に熱心な町で、髙畑が通う内子尋常小学校には英語の上手な教師がいた。この教師に私淑した髙畑は小学校を卒業するころには、簡単な英会話や作文ができるようになっていたという。その後、松山中学への進学を希望するが、心臓の不整脈のため入学直前の体格検査で不合格となり、西条中学から神戸高商へと進学、神戸高商の水島銕也校長の勧めで、20世紀の初頭には日本一の総合商社となる鈴木商店に入社している。
 水島校長は鈴木商店の番頭、金子直吉と親交があり、金子から「鈴木商店の貿易部門を拡大したいから、だれか適当な卒業生を紹介してほしい」と頼まれていたという。金子の面接を受けた髙畑は、1909年、初めての“学校出”の社員として、鈴木商店に入社、外国通信係となる。ここで英語力を認められた髙畑は、ロンドン支店駐在を命じられ、1912(大正元)年の11月に神戸を旅立つ。
 ロンドン支店長としての任務を引き継いだ髙畑は、第一次世界大戦下の欧州を舞台に活躍、鈴木商店に巨額の利益をもたらしている。

 

1928年の関西アマチュアゴルフ選手権に優勝した髙畑誠一。「ゴルフドム」1928年5-6月
合併号より転載

 

 髙畑誠一がゴルフと出合ったのもまた、ロンドンであった。生まれつき心臓が悪かった髙畑に、横浜正金銀行ロンドン支店支配人の巽孝之亟が「それなら君、ゴルフをやりなさい」と勧めてくれたのだという。1912年末頃のことであった。
 ゴルフを始めたことで、生まれた時から25年間、悩まされていきた不整脈が正常になり、ゴルフの腕前はハンディ6にまでなった。髙畑は後に「ゴルフは私の命の恩人」と語っている。
 第一次大戦中も土曜の午後と日曜祭日は必ず、メンバーになっていたアディントンを始め、サニングデール、セント・ジョージヒル、ウォルトン・ヒース、オックセイなどのお気に入りのコースに出かけという熱中ぶり。英国の名門コース巡りにも出かけ、セントアンドリュースでもたびたびプレーしている。
 ラウンドを繰り返すだけでなく髙畑は、頻繁にレッスンも受けている。テッド・レイ、ハリー・バードン、J.H.テーラー、レッスンを受けたコーチたちはそうそうたる顔ぶれだが、髙畑は「名選手必ずしも名コーチにあらずで、英国のオープンチャンピオンシップに5回も優勝(筆者注・バードンの通算優勝回数は6回)したハリー・バードンやテーラーの教え方は下手だった」と、日本経済新聞に連載された「私の履歴書」のなかで語っている。 

 

本場のゴルフを日本人に伝える

 レッスンとしてはあまり役に立たなかったが、このプロたちとの出会いが後に役立つこととなる。1921年の春、訪欧された摂政宮(後の昭和天皇)に、アディントンゴルフコースでエキシビションマッチをご覧いただいたのである。エキシビションを行ったのは、ハリー・バードン、テッド・レイ、ジョージ・ダンカンにアディントン所属のジャック・ロスの4人。大のゴルフ好きだった当時の駐英大使、林権助と侍従長らが相談し、「殿下にゴルフを楽しんでいただきたい」ということとなり、「ゴルフのことなら髙畑君」と話が決まり、このエキシビションが実現したという。
 ロンドン時代には、英国のゴルフに精通していた髙畑を頼り、大谷光明、伊藤長蔵、井上準之助、川崎肇、赤星鉄馬など、多くの日本人がハムステッド・ヒースの髙畑家を訪れている。英国の名コースを髙畑から紹介してもらうのが目的だった。
 1926年、15年にわたるロンドン暮らしを終え帰国した髙畑は、経営が悪化していた鈴木商店の立て直しに奔走する。しかし、1927年、鈴木商店はあえなく破綻。髙畑は鈴木商店の子会社だった日本商業を母体とする新会社「日商」(経営統合などを経て、現・双日)を立ち上げる。
 鈴木商店の経営改善、日商の立ち上げに邁進した髙畑だが、「命の恩人」であるゴルフのことを忘れることはなかった。
 神戸、鳴尾、舞子などの会員となった髙畑は、関西ゴルフ連盟の前身となる関西ゴルフユニオンの設立を伊藤長蔵に進言し、廣野ゴルフ倶楽部の創立にも参画。東京ゴルフ倶楽部朝霞コースの設計のために来日していたC.H.アリソンを訪れ、廣野の設計を依頼したのも髙畑であった。

 

1931年の日本アマチュアゴルフ選手権、決勝で敗れ2位となった髙畑誠一(左)。右は優勝の新田恭一。「ゴルフドム」1931年10-11月合併号より転載

 

ルールブックを日本語訳
ヘッドカバーを考案 

 また、1934年には「問い合わせが多いので、いっそ解説付きのルールブックを書いたほうが早い」と、ゴルフルールを初めて日本語に翻訳している。今では世界的に当たり前となったヘッドカバー、そしてゴルフ用の手袋もまた、髙畑の発明だと言われている。
 髙畑が鈴木商店のロンドン支店長を務めていた当時、鳴尾ゴルフアソシエーションを受け継いだ鈴木商店の社員たちなどから「クラブを送ってほしい」という依頼が届くことが度々あったという。
 「ウッドに毛糸で帽子を作れば、無事に着くだろうと髙畑さんは思われ、それを実行することにしました。三井物産支店長の渡辺英雄さんの妹さんに、カバーを編んでもらったのです。こうして初めてのカバーはウッドにかぶせられ、日本に送られました」と、ゴルフジャーナリストでコース設計家、スポーツイラストレイテッド誌アジア代表だった金田武明(1931~2006)は書き残している。
 髙畑は、日本アマチュアゴルフ選手権に12回出場(最高位は1931年の2位)、関西アマチュアゴルフ選手権2度優勝など、プレーヤーとしても輝かしい実績を残している。

 

文/近藤雅美

 

参考文献:
鳴尾ゴルフ倶楽部100年誌「naruo spirit」
「私の履歴書」第48集、日本経済新聞社編
「神戸ゴルフ倶楽部史」1966年、神戸ゴルフ倶楽部

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