HISTORY 競技
第1回日本オープン
初代優勝者は
アマチュアの赤星六郎
現存する世界最古のトーナメントである全英オープン(The Open)が創設されたのは1860年。日本では江戸時代末期、桜田門外の変が起こった年である。アメリカのゴルファーNo.1を競うトーナメント、全米オープン(United States Open)が始まったのは1895(明治28)年。前年設立されたばかりのUSGA(全米ゴルフ協会)の主催であった。
第1回日本オープンゴルフ選手権競技は、全米オープンに遅れること32年、主催するJGA(日本ゴルフ協会)が創設された3年後となる1927(昭和2)年5月28、29日の2日間、神奈川県の程ヶ谷カントリー倶楽部で開催された。程ヶ谷カントリー倶楽部は1967(昭和42)年に新コースに移転しており、この年の日本オープンが開催されたのは、現在は横浜国立大学の敷地となっている旧コースである。
すでに前年、日本プロ(当時の名称は、全日本ゴルフ・プロフェッショナル36ホール・メダルプレー争覇戦)、そして関西オープンが開催されていたが、ともに36ホールの1日競技。日本オープンは、2日間で72ホールを戦う国内最初の本格トーナメントとなった。
この第1回日本オープンに出場したのはアマチュア12人、プロ5人の計17人。アマチュアの出場資格はJGAが制定したばかりのナショナルハンディキャップで「8」以内。赤星四郎と弟の六郎、日本アマ3勝を誇る川崎肇、日本アマ歴代チャンピオンの1人である大谷光明ら錚々たるメンバーが揃った。プロの出場にも「所属クラブのオナラリー・セクレタリー(名誉書記)に推薦された者」との規定があり、宮本留吉、安田幸吉、浅見緑蔵、中上数一、関一雄の5人が出場している。
当時のプロはみな若く、試合経験も少なかった。海外でゴルフを学んできた赤星兄弟らトップアマがプロを指導していた時代であり、アマの実力がプロを凌駕していた。
初代日本オープン優勝者となった赤星六郎の実力はなかでも抜きんでており、この大会で上位に入ったプロたちは皆、六郎の指導を受けていた。
安田幸吉を指導する赤星六郎(写真左)
アマがプロを教える時代
赤星六郎(あかほし・ろくろう 1901-1944)は、薩摩藩の郷士で実業家として知られる赤星弥之助の六男として東京に生まれている。米国のプリンストン大学に留学したおり、大学の近くにゴルフ場があったことからゴルフを覚えゴルフ部に入部。全米オープン優勝者(1924年)であるシリル・ウォーカーの指導を受けめきめきと上達。留学中の1924年に米国のパインハーストで行われたトップアマが数多く参加する「スプリング・トーナメント」に優勝するなど、その才能を開花させる。
帰国後は東京ゴルフ倶楽部(当時・駒沢)で安田幸吉、浅見緑蔵、さらには六郎から学ぶために大阪の茨木CCからやって来た宮本留吉らを指導した。
安田幸吉はJGAの『五十五年の歩み』のなかで「私が20歳の頃、赤星六郎さんがアメリカからお帰りになり、そこで初めて私共は本当のゴルフを見せて貰ったのです」と当時を語っている。
アマ2人目の優勝は95年後
大会初日、程ヶ谷カントリー倶楽部の当時の状態は、「快晴。よく手入れされたるコースは一両日の前の雨に柔味を加え、申し分なきコンディションであった」(『ゴルフドム』1927年6月号、現代語訳)という。
第1ラウンドは、コースレコードの74を出した赤星四郎が首位に立つ。弟の赤星六郎とプロの浅見緑蔵が79でこれに続く。第4位は80で回ったプロの中上数一であった。
「風、南に変わり草乾きてグリーン軽し、さらにいいスコアが予想された」(『ゴルフドム』1927年6月号)という午後の第2ラウンド。
赤星六郎が、兄が樹立したばかりのコースレコードを破る73でラウンドし通算152、一気に首位に躍り出る。首位に立っていた赤星四郎は90と大きく崩れて5位に後退。浅見は第2ラウンドのアウトで36の好スコアをマークするがインは43と乱れて通算158。赤星六郎から後れること6打の2位で初日を終えた。3位は161の宮本留吉、4位は162の中上とプロが続く。
第2ラウンドを終えて首位から20打以上離された選手は翌日からプレーする権利がない、いわゆる予選落ちとなる競技規則があり、第3ラウンド以降に進めたのはアマチュア3人、プロ4人の計7人であった。
さらに快晴で風もなかったという2日目の第3ラウンド。79でラウンドした首位の赤星六郎に対し、2位の浅見は85、3位の宮本は80と差を縮めることができない。第3ラウンドを終えて、赤星六郎が2位に12打の大差をつけた。
第1回日本オープン、最終ラウンド。2位に9打差をつけた赤星六郎は、7番から3ホール続けて3パットの「6」と乱れたが、それ以降は安定したプレーで78。通算309で日本オープン初代チャンピオンに輝いた。最終的には2位に10打差をつける圧勝だった。
最終ラウンドで76をマークした浅見緑蔵が2位。雑誌「ゴルフドム」(1927年6月号)は、第1回日本オープンの模様を伝えた記事の中で浅見の善戦を称え「ファースト・プロフェッショナルの名誉を得た」と評している。
圧倒的実力を誇る赤星六郎、そしてその兄・四郎(1926年の日本アマ優勝者、後年コース設計者として箱根CC、程ヶ谷CC新コースを設計)らアマチュアゴルファーの実力がいかに高かったがわかる記述といえるであろう。
大本命のアマチュアが勝つべくして勝った第1回大会であったが、19歳の浅見緑蔵が第2回大会で前年の雪辱を果たすと、以降は著しい成長を遂げたプロたちが日本一の座を争うこととなる。
その後プロの時代は続き、日本オープン史上2人目となるアマチュアのチャンピオンが誕生するまでには、95年の歳月を必要とした。2022年、蝉川泰果(当時、東北福祉大学4年)の第87回日本オープン優勝が物語るのは、日本のゴルフ競技の歴史そのものなのである。
第1回 日本オープンゴルフ選手権(当時 全日本オープン・ゴルフ・チャンピオンシップ)
於:程ヶ谷カントリー倶楽部 6,170y Par70
順位 | 選手名 | 1R | 2R | 3R | 4R | Total |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 赤星 六郎(程ヶ谷) | 79 | 73 | 79 | 78 | 309 |
2 | 浅見 緑蔵(程ヶ谷) | 79 | 79 | 85 | 76 | 319※ |
3 | 宮本 留吉(茨木) | 83 | 78 | 80 | 79 | 320※ |
4 | 赤星 四郎(程ヶ谷) | 74 | 90 | 84 | 81 | 329 |
5 | 安田 幸吉(東京) | 85 | 80 | 84 | 82 | 331※ |
6 | 中上 数一(京都) | 80 | 82 | 81 | 90 | 333※ |
7 | 川崎 肇(程ヶ谷) | 90 | 79 | 83 | 83 | 335 |
(以下は予選落ち) | ||||||
大谷 光明(東京) | 86 | 86 | 172 | |||
田中 善三郎(東京) | 89 | 85 | 174 | |||
伊地知 虎彦(東京) | 90 | 88 | 178 | |||
藤田 欽哉(程ヶ谷) | 87 | 91 | 178 | |||
関 一雄(根岸) | 97 | 82 | 179※ | |||
野村 駿吉(東京) | 87 | 93 | 180 | |||
相馬 孟胤(東京) | 91 | 89 | 180 | |||
首藤 安人(東京) | 94 | 88 | 182 | |||
井上 信(東京) | 94 | 90 | 184 | |||
P.A.Cox(根岸) | 94 | 94 | 188 |
※はプロゴルファー
2位の浅見緑蔵は、翌28年の第2回日本オープンゴルフ選手権を19歳の若さで制した。後年、プロゴルフ協会の創立に尽力し、第2代理事長を務めた
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